2005年05月31日

山葵漬け

「Nさん、また遣っちゃったのよ」
「馬鹿野郎、君が居て遣っちゃったのよは、無いだろう」
「どうして、わたし、怒鳴られなくちゃならないのよ」
「どうして、俺が君を怒鳴らなくちゃならないんだ」

 Nは優しい男だ。Nは気の良い奴だ。酔うに従って、その場に居たたまれなくなる。ズボンを脱ぐ、シャツをかなぐり捨てる。咆える。飲み仲間の誰彼を大声で呼ばわる。アイスペールに、ボトルからウィスキーを注ぎ入れ、カウンターのありとあらゆる物、煙草の吸殻、おつまみの何やかや、食卓塩、マヨネーズ、眼鏡、挙句の果てには自分の履物を突っ込んで、その得も言われぬ飲み物を、ザザーッと呷るように飲み込む。連れが調子を合わせてゲラゲラ笑う。これが不可ない。笑うから不可ない。下着姿で逆立ちを始める。
 ある酒場では、入り口の脇の小さな小物入れの扉を開けて、スッと隠れてしまったことがあった。店の女たちが面白がって扉をソロソロと開けると、床に座り込んで膝に頭をつけたままの姿勢で、ジーッとこちらを睨む。その目が可愛いといって、女たちがまた笑う。そんなことの繰り返しで、夜が更ける。

「どうしたの、Nさん?」
「逃げたんだ」
「逃げたって、お・く・さ・ん?」
「細君もだけど、手乗り文鳥」
「ヤーダ何それ!?」
「だから、逃げられたんだよ、彼奴」

「明日、会いに行くんだ」
 何時になくしんみりと飲み始めたNが呟く。
「会いに行くって、誰に?」
「お前もひどい奴だな、分かっているくせに」
 わたしは何も知らないことになっている。友人から聞いてはいたが、直接Nがその話に触れるまでは、こちらから切り出すわけには行かない。
 
 Nの細君は、M市の駅前で小さなブティックを開いていた。         
    (次号へ続く)
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2005年05月29日

待避もあるべかし

 国語辞典を引く。
 必然、当然、ガイ然、偶然の、ガイという字を忘れてしまった。蓋然と書く。何のことはない「フタ」ではないか。「あるいはそうであろうと思われるさま」(広辞苑)とあるが、そうであろうとも思われず、影も形も思い出せなかった。
 人は、固有名詞から忘れ始めるという。人の名前や地名を良く忘れるし、新しいものが頭に入らない。
 それにしても字を忘れる。読む方は何とか現状維持なのに、字の形を忘れる度合いが甚だしい。元々しっかり覚えなかった証拠だろうか。しかし、同年代の仲間に訊いてもほぼ同じ症状を呈していることからすると、形象的なものから忘れ易いと言えるのかもしれない。
「人の顔は覚えていても、名前が思い出せない」とはよく聞くし、当方も経験があることだ。反対に、「人の名前は覚えているのに、顔がとんと思い出せない」という現象になったら、チョイと寂しい気がする。
 遠い初恋の相手や、密かに思いを寄せた女(ひと)の面影は何時までも胸に納まっているつもりが、「思い」だけになって、後は脱け殻、では余りにも切ない。
 心のアルバムに残る映像は、何時ページを開いても、ガイ然の一級上、当然、更には必然と、目に浮かぶ如くであって欲しい。
 
 思い出が遠いのは
 過ぎた時間の後影
 
 思い出が美しいのは 
 過ぎた時間が描くから

 思い出が優しいのは
 過ぎたあの日の微笑みか

 人は勿論、思い出によって癒されるとばかりは限らない。苦い思い出に、思わぬしっぺ返しを食って、一人冷や汗を流すこともある。
「過去」に脅えて、眠れぬ夜々を過ごすこともある。
 日常生活において「過去」とどのように折り合いをつけるか。蓋し当然、と悟りきれぬ身にとっては「今」の中に埋没せずに生きる道筋は、暗く険しく見えるばかりだ。
 唯一の光明は「忘却」にあり、とはこれ如何に。なんと此の世は「アンビヴァレンスに充てる」ことか。
 
 一つの字句を引いて、思わぬ苦悶の迷路に陥ってしまった。このうえは、「偶然」の世界に待避するに如くは無し。
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2005年05月27日

落 文(おとしぶみ)

 貰った手紙を食べてしまったのは、童謡に唄われた黒ヤギさんだけれど、親に貰った遺言状を食べて成長する虫がいるのをご存知だろうか。
 落文、落書。
 広辞苑(岩波書店)によると、
「時事または人物を風刺・嘲弄した匿名の文書。人目につきやすい場所や権勢家の門などに貼りつけ、または道路に落として置くもの」とある。  
 似たものに、落首がある。同じく広辞苑から引用させていただく。 
「(落書の一首の意)風刺・嘲弄・批判の意をこめた匿名の戯歌。封建時代には政道批判の手段としてしばしば行われた」
 時の為政者や権勢家などには、面と向かって物が言えなかった時代、露顕すれば極刑まであったから、中には命がけのものもあったらしい。昆虫にその名が付いたのは、だから、その形を取っただけではなく、虫もまた命を掛けているからなのだろうか。
 更に広辞苑から引く。
 落文:オトシブミ科の甲虫の総称。体長3〜10ミリ。頭部は細長く、後方がくびれる。一般に光沢があって美しい。広葉樹葉を丸めて巣を造り、中に産卵して地上に落とす。この巣のことを「ほととぎすの落文」、「落文の揺籃」という。中の幼虫は内面を食べて育つ。
 解説にあるとおり、鼻が長く伸びた姿は、穀象虫に似ている。あちらは米粒専門。
 さて、当方の庭木の落文を、もう少し詳しく見ることにする。
 椚の葉の先端から3〜4cmを、葉脈とほぼ直角に切り取り、くるくると丸めて巣を造っている。その切り口は、刃物を用いたように実にきれいに切り取ってある。巣は真ん中の、葉脈の主脈の先端にぶら下がることになる。巣の上部は、雨水が入り込まないように小口もキチンと中に畳み込んである。品物の包装の仕方にそっくりで、キッチリとしていて見事なものだ。 
 やがて、巣となった葉は枯葉になって行く。葉脈が生きていて、それに繋がっているのに何故枯れるのか。良く見ると、巣がぶら下がっている葉脈の先端に、針で突いたような小さな黒い穴があいている。親虫が吸った跡だ。親虫が栄養分を補給する為だったのか、わざわざ巣の部分を枯れさせる為だったのか、それは分からない。気付いた時には、親虫の姿は消えてしまって、杳として行方が知れず、確かめようがない。落文の落とし主の姿が見えない。これも落文たる由縁だろうと思う。しかし、その名のとおり、いずれは地上に落ちて、幼虫が「巣の枯葉を食べて大きくなる」とあるから、多分、用意周到な親虫の配慮には違いなかろう。
 雑木に宿る昆虫の生態は、百者百態。
 落文の直ぐ上の葉に巣食っている蓑虫も、見ていて飽きることがない。
 えっ、蓑虫が動くのか、ですって? 彼も生き物ですもの、食事もするし、何も致します。
 落文のその後の運命と合わせて、後日譚と致します。それでは...。
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2005年05月25日

交差する時間 T

 
 寄り添えば 冷たく逃げて行く 時間
 
 だから 捕まえてください

 見詰め合えば 淡く溶けて行く 時間

 だから 抱いてください 
 
 束の間 確かめ合っても

 傷ついた言葉だけが 横たわっている

 青い虹を見たの...

 白い風が吹いていたの...

 透き通った夢を...


 
 もう一度 あの街角で出会えたら

 違うわたしと

 違うあなたと

 交差する時間の中で...



 ※ 「交差する時間」は、pictureさんのBlogの
  キャプションから借用しました。

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雲の上に

 暮れなずむ山の端を、ジェット機が一機、音もなく飛んで行く。空に浮かんだ薄墨色の雲のその上に、夕焼けた飛行機雲を引いて行く。
 僕は何時も、そんな超高空を飛ぶジェット機の飛行士に、強い羨望を覚える。否、彼の無頓着さに、嫉妬さえ持つと言った方が良いかも知れない。 
 飛行士の無頓着さ?
 そうだ、彼はあの飛行機雲の、悲しいほどの美しさに頓着しないだろう。青空に、ガラス細工のように輝きながら溶け込んでいる機影の、恐ろしいほどの危うさに頓着しないだろう。 
 そんな彼に、遠い遠い嫉妬を覚える。
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2005年05月24日

色々という色(その2)

 染色の世界では、「百鼠、四十八茶」という言葉があるそうだ。江戸時代、華美・奢侈を禁じられた庶民が、地味な色を様々に工夫を凝らして楽しんだ伝統が、今に生きているのだと言う。当然地味な色に種類が多くなる。地味な色を粋に着こなす、これが和装の醍醐味だと言うひともいるが、当方も好きな色はと問われれば、地味色、中でも利休鼠の鮫小紋に手を上げたい。
  
 時々、街を歩いていて、着物姿の女性を振り返り見るのは、衒学的な興味ばかりでは勿論ない。着物の美しさは、決して衣桁に吊るされて見る色柄、色目だけにあるのではないはずだ。着こなしてこそ、美しさが匂い立つと言うものだろう。 
 着物を装い、色々な色に包まれた女性の美しさと相俟って...。

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色々という色

 左近の桜右近の橘ではないけれど、雪見灯篭の左右に植えた藪手毬と会津下野に、夫々白い花が咲いている。
 藪手毬は、額紫陽花に似て、周囲に装飾花を付ける。装飾花の白が勝って見えるので、総じて花としなければ可哀想なくらい、本家の花は小粒の集合体で地味な花だ。花に見る白色の中でも、この花の白は、際立っているように思う。雪のような冷たいそれではなく、温かみのある、ホックリとした白。何色かは判然としないが隠し味とも言うべく、「よごし色」が混じっているに違いない。
 色彩学的には、白という色は無く、太陽光線の中に含まれる可視光線の全てが反射するので、白く見えるのだ、と説明されている。
 村山貞也氏の『人はなぜ色にこだわるか』(KKベストセラーズ)によると、エスキモーの人たちは、雪の白さを数十の言葉で表しているらしい。だから、白一色に見える氷雪原の中でも、迷わず道案内が出来るのだそうだ。私達の、白色を強調する時に用いる「雪のように白い」と言う表現も、エスキモーの人たちにすれば、どの雪だ?となるのだろうか。
 会津下野、別名シロバナシモツケは、藪手毬のようにハッキリした花ではない。同じ半球状の小花の集合体だが、装飾花を持たないぶん、蕊が目立って、遠目には輪郭が優しく見える。下野の若葉が美しい。眺める角度によって、表面に蛍光色を刷いたように複層して見える。緑とも黄色ともつかず、黄金色に輝いて見える。自然界の色合いとしては、限りなく黄金色に近い色と言って間違いはないだろうと思っている。
 この葉の色も、盛夏になればくすんだ深緑色に変わってしまう。何事によらず「このままで居て欲しい」と思いを掛けることは多いけれど、こればかりは叶わない。
 はなのいろは、うつりにけりないたずらに...。
 移ろうのは、花の色ばかりではないのである。
  
 勝手に「お気に入り」に入れさせて貰っている、hidamariさんの「きものライフ」は、着物歳時記とも言うべきBlogで、四季折々の着物とその着こなし方を綴っておられて、何時も楽しく拝見させて頂く。不粋ものの当方は、着物とは縁のない生活をしているが、日本人の着物に込めた思いが伝わってきて大変参考になる。
 それにしても、着物に関わる染色や織りの歴史の奥深さ、色合いや色目の多さには目を見張るばかりだ。 (次号へ持ち越します)
 
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2005年05月22日

風と青空と

 絶不調。風邪を引いてしまった。日頃、6度あるなしの体温だから、7度を超えるとボーッとして何も手に付かない。
 一昨日、あまりにも気持ちの良い天気なので、木の下にハンモックを吊ってうたた寝をしているうちに、寝入ってしまったのが原因らしい。薫風に中たったとは情けない話だ。
 新井 満氏のCD『千の風になって』(ポニー・キャニオン)をrepeatにセットして、掛けっ放しで聴いていた。作者不詳の英詩を、新井氏自身で訳して、曲までつけてしまったもので、マスコミにも流れて随分評判になったらしいが、当方は、家人の知人の話で最近になって知った。新井氏の作品には欠かさず目を通していたつもりだったが...
CDと一緒に、随筆集『死んだら風に生まれかわる』(河出書房新社)も買ってきた。
 帯のキャッチコピーを引用させていただく。

 良いなあ。
 想像するだに、楽しそうだなあ。 
 風に生まれかわって、 
 世界中を自由自在に吹きわたる。
 そう思うと、死ぬことがそれほど
怖くなくなってきた。
 
『千の風になって』は、死んでも千の風になって大空を吹きわたり、ある時は光に、ある時は雪に、そして鳥や星になって、「あなたを見守る」と唄っている。(下手な要約では、新井氏の労作を汚すことになるので、この辺で止めます。どうぞ現物をご覧下さい。)
 曲調も、死を唄っているにも拘わらず、歌詞のとおり、大らかな光溢れる感じで、聴く者も一緒に大空を飛ぶような浮遊感があって、明るく美しい。
 このCDを紹介してくれた奥さんのご主人が「俺が死んだら、葬式は簡素にして、沢山の白い花を飾って、この曲を流して欲しい。出来たら、参列者皆で合唱してくれたら嬉しい。これは俺の遺言だとして聞いてくれ」と言って、手を突いて頼んだそうだ。 当方は、ショパンの作品から5曲ばかり選んでMDに収録したものと、簡素なお別れパーティ形式のスケッチなどを描いて家人に渡してある。が、『千の風になって』を聴いて、心が動いてしまった。
 ショパンのピアノ・ソナタ《葬送》は、そのものズバリで、重すぎるかなあ...。風になって大空を翔けて、光になって...と揺れるハンモックから、青空を行く白い雲を眺めているうちに寝入ってしまって、挙句が風邪でダウン。
 まだまだ風になるには、修行が足りません。明日は風に乗って病院へ行こう。

 

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2005年05月21日

時間の尻尾

 庭のブルースターが、幾つも蕾をつけている。まだ葉も出揃っていないのに、気の早いことだ。  
 去年は、ツンと伸びた茎頂に3個しか花を見ることが出来なかったが、今年は、枝分かれした数本の茎頂に、随分の数、花が見られそうだ。 
 草花は家人、当方は雑木ものと棲み分けている我が家の庭で、唯一、自分で植え付けて楽しんでいるのがブルースターだ。
 花柄も小さく、決して見栄えのする花ではない。しかし、花の色としては珍しい青系の色、それも淡い青空の色に似た花弁と中心部に置かれた濃い群青色が好きなのだ。  
 開花してから、夏の酷暑を乗り越えて秋口、花の大きさからは想像も出来ないくらい大層な、莢状の実が付く。
「気を付けていないと、何処かへ飛んで行ってしまうわよ」
 莢が弾けて、中から種が覗いている。今にも風に乗って飛び立とうとしている。
 莢を割ってみると、あるはあるは、種子が次々と出てくる。
 あの親にしてこの子あり、あの花にしてこの種あり。これが如何しても結びつかない。直径3aに満たない花から、10a近い大きな莢が生まれて、中に羽毛に包まれた種子が数十粒詰まっているのだ。この柔毛が、実に繊細で、美しい。繊維の世界では、糸が細くなればなる程紡ぎ出す技術が難しくなると聞く。ブルースターの種子を包んでいる柔毛はどのくらいの太さか、あまりに細くて測りようがないけれど、一_の数十分の一であることは確かだ。これを見ると、自然の生業の妙をまた一つ見つけたような気になる。  
 知人のアマチュアカメラマンのSさんが、この種子を太陽光線の逆光に透かして撮った写真が、さる展覧会で大賞を受賞した。
 置いた数粒の種子に、一つ、空中から舞い降りる種子を配した構成で、柔毛が銀色に輝いていた。この瞬間を撮った時、「時間の尻尾を掴んだと思った」と、Sさんは得意気だった。常に、決定的瞬間を追い求めているSさんのアルバムに、また一つ傑作が加えられた。 
 どのように撮影したのか訊ねると、言下に、企業秘密です、と断られてしまった。
  
 ブルースターの開花が待たれてならない。 
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2005年05月20日

ギター教室 第2日

 足台とチューナーが届いた。
 折畳み式の足台を早速開いて、足を乗せる。一日目、講師が説明したギターの構え方の通り、様になったゾ。ウーン、やはり形が大事だと実感する。 
 チューナーは、電池式のデジタルタイプ。
 第6弦から開放弦でチューニングする。液晶表示の針が振れて、微調整に苦労する。 
 EからEまで、チューニングが終わった時には肩から首筋まで固まってしまった。初心者ほど無駄な力が入る。これは何事によらず共通するものらしい。 m、i、p。人差し指、中指そして親指を使って、第1弦から第3弦まで、4/4、3/4、5/4と四分音符を追いかける。オタマジャクシが逃げて行く。オーイ待ってくれ! イヤナニ、こちらの目がチラチラしているのだ。講師の声だけが、正確に拍子を刻んでいる。
 休憩時間に、講師が一曲『アルハムブラ宮殿の思い出』を披露してくれた。
 曰く「ギターを習いに来る9割以上の人が、この曲と『禁じられた遊び』を弾きたくなりたいと仰いますね」ニヤッ。(いや、こちらは『...ギター協奏曲』を目指しますので...)
再開後、左手の形を注意される。親指は曲げずに、指板の中央辺に添え、他の指と、指板・弦を挟む感じ。 
 ウーン、右手に集中すると左手が覚束ない。左手を気にすると右手が、アレッ!?
講師「気長に、ゆっくりやりましょう」
生徒「そうしましょう」
 この日も10時近くまで。アー疲れた!!
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2005年05月19日

『蜘蛛の糸』

《或日の事でございます。》
 
 睡蓮の葉が、やっと水面に届いた。
 深さ50aほどの水鉢の底に沈めた根株に、5、6枚、小さな葉が開いてから随分の日にちが経っていた。緑の混じった暗紅色の葉が、時来たらずと、水底からこちらの様子を伺っていた。それらの葉のうちの一枚が、ヒョロリと細い茎を伸ばして、漸う水面に顔を出した。今季初登場になる。それなのに、早くも茎には水藻が絡み付いていたりして、苦労しましたと言っているようだ。
 睡蓮の、水底からユラユラ伸びている様子を見ると、何時も、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を思い出す。文庫本にして、わずか5頁に満たない掌編ながら、おぞましい地獄の様と、そこに蠢く罪人たちの姿が描破されている。
 中学校の教科書で初見以来、蜘蛛の巣を見る度に思い出し、今は睡蓮の水に揺らめく姿を見て連想する。 
 御釈迦様手ずから下ろされた蜘蛛の糸が、それに縋りついて地獄の血の池を脱しようとする犍陀多の手元から、ぷつりと切れたのは、犍陀多のエゴイズムの故とされているが、果たしてそうだろうか...。百罪を犯して地獄に堕ちた犍陀多を、なお救おうとされた御釈迦様が、煩悩の一つに過ぎない我欲のために、再び地獄に落とすという最終的な罰を与えるものだろうか、エゴイズムとはそれ程罪深いものなのだろうか...  
一言も諭すことなく、ただ人間本来の罪深さを断罪する御釈迦様とは、何と冷たいお方なのだろうか...
 幾つもの疑問が湧いてくる。 
 犍陀多が蜘蛛の糸に取り付いたとき、その身を糸が天上に引き上げてくれることはなく、自らの力で必死に手繰りあがる姿は、己が日常の足掻きそのものだ。
 下司の身は、破天荒なことまで考える。
 蜘蛛の糸は、犍陀多とその後に続く何百、何千という罪人の重みで切れることになっていたとしたら...
地獄を脱する「糸」は、自らの善行で糾うべし、という教えなのだろうか...
 作者も断定はしていない。
《...元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅ましく思召されたのでございましょう。》と結んでいる。
 我欲の強い愚かな我が身を、「浅ましい」といわれるようで身も蓋もない思いがするが、一筋の蜘蛛の糸を、一条の救いの光と受け止めたい、煩悩の日々が続いている。

 気が付くと、浮いた睡蓮の葉の上に、一つの滴が光っている。
 犍陀多は、一度は蓮の葉の上に辿り着いたのではないだろうか。  
 そして消えた。一滴の涙を残して...

 ※《 》内、新潮文庫(昭和43年11月15日発行
   平成15年5月10日64刷版)から引用させて   いただきました。
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2005年05月16日

音楽は誰のもの?(閑話休題)

 NHKの第2からFMにダイアルを廻すと、AMAZING GRACEが聞こえるではないか!!!
 急いでヴォリュームを上げる。アー終わってしまうー。
 数多くの人が、夫々の歌詞、唄法で唄っているけれど、誰の歌を聞いても、何時聞いても涙が出てきてしまう。
 以前、NHK総合TVで、この歌に纏わる秘話を特集していた。その時のメモがいくら探しても見当たらない。丁寧な取材特番だっただけに、残念でならない。
 今日唄ったのは、黒人ソプラノ歌手、ジェシー・ノーマンと紹介されていた。クラッシック系の人の唄うAMAZING GRACEは初めてだ。最初から聴きたかったなぁ。ゲストの中嶋啓江嬢のコメントは快活で、奥深い。頭の良い人に違いない。
 そして、脳天パンチを食らってしまった。マヘリア・ジャクソンの歌も流したと言うのだ。何と言う厄日。
 マヘリア・ジャクソンのCDは、数も多くないし、廃盤になっていて手に入り難い。
 ところが或る日、奇跡が起こったのです。
 或る地方のスーパーマーケットに買い物に入ったときのこと。デモ店の平台に山積みにされたCDの中に、アーこれぞ神の思し召しでなくてなんであろう!マヘリア・ジャクソンのCDがちょこんと顔を見せていた。
 震えました、叫びました、会えました。
 解説書も何もない、素っ気ないケースの中で、MAオバサンが少し淋しげな表情で、左前方を見つめています。下唇を一寸突き出した独特のポーズで...
でも良く見ると、何かを口ずさんでいるようにも見えます。幽かに開いた口元から聞こえてきそうです。そう、AMAZING GRACEが...

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2005年05月13日

ボロロォォォン♪

 5月12日「クラッシックギター教室」初日。
 受講生19名のうち、初心者は当方とも4名。
 3年、4年、中には5年継続者もいる。ここでも女性陣が9名と頑張っている。
 中年も高年も皆ニコニコと楽しそう。
 同じ部屋での複式授業形式。こちらはチューニングもオロオロしているのに、隣の席では早くも、ボロロン、ボロロンと名曲の調べ。
 初級者は、講師が話をしている間は、音を出さないことと注意された。と、不思議なことに気が付いた。ギターが鳴っている!胸に抱いたギターが、隣の上級者の弾く曲に合わせて、共鳴するのだ。かすかに、ボディが震えている。ヘェ、ギターってこんなにデリケイトな楽器だったんだ。
 教則本「子供の為のギター教室」
 講師曰く「反復練習で、基本・基礎をしっかり修得することが、上達の早道です」
 かくて隔週木曜日、月2回の教室がスタートした。 
 講師はなかなかの熱血漢で、午後7時30分から9時30分の指導時間が、初日から10時を回ってしまった。
 来年2月、発表会とのこと。大丈夫かな?
 ボ・ロ・ロ・ォォ・ン♪
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交差する時間 − ホ・テ・ル

独り、ルームサービスを取りました 
電話のベルを待ちました

♪あの人は今、何処にいるのかしら
 何をしているのかしら
 誰といるのかしら
 電話を待っているのに 
 ベルは鳴らない...

物憂げな
モニカ・ルイスのブルースが
流れている

今ならまだ間に合う
今ならまだ誰かに会える

夜が深くなって
愛を得て...
眠りについて...

誰も助けには来てくれない
朝まで待てない
シンデレラ

今なら間に合う
今なら誰かに会える

ラウンジのカウンターで
バーボンでも飲もうか
寂しがり屋さんの肩でも叩いて

♪電話のベルはならない...

モニカ・ルイスが泣いている
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2005年05月12日

辛夷の落し物

 庭木は雑木、と決めているので、我が家の冬の庭は実に殺風景だ。家人の縄張りの花壇も、せいぜいビオラの鉢物が縁石に並んでいる程度。 
 それがどうだ、今や新緑真っ盛り、花壇にも色とりどりの花が咲き揃って賑やかなことこの上ない。 移植して30年、庭の真ん中に立つ姫辛夷も、幼葉が次第に大きくなって、鬱蒼としてきた。樹高、枝の差し渡し共、8bに近く、庭一番の大木になっている。  
 この春には、枝一杯に花を付けた。 
 黄昏時や朝ぼらけ、薄明かりの中に浮かぶ薄桃色の立ち姿が、何とも艶めかしかったものだ。 
 その花も、すっかり散り尽くしてしまった。 
 落花狼藉、大年増の徒情。一頃は、すさまじい量の花びらが庭に散り敷いた。苔庭の上にも重なって落ちた。 
 
 ところで、この辛夷の落し物は花びらだけではないのだ。
 先ず、開花と同時に、蕾を包み込んでいた蕾苞が降ってくる。猫柳の花に似て表面が産毛で覆われている莢状のもの。いわば蕾の揺り籠だ。 
 次に、若芽を守っていた薄い皮膜のようなものが、ハラハラ、ヒラヒラと風に舞い落ちる。
 夏、赤く色付いた、大人の小指の一節程のヒョロ長い実が落ち始める。こちらは地面に、ポタリ、ポトンと音を立てて落ち零れる。
 そして晩秋。落葉樹だから、当然のことに、葉を散らす。風の強かった日の翌朝には、庭一面、落ち葉で被われる。季節には、毎日毎日落ち葉を掃く。庭の土の部分は箒で掃き集めるが、苔庭は、そうは行かない。一枚一枚、丁寧に指で摘んでは袋に詰める。苔の間に入り込んだものは、ピンセットで拾い上げる。無理をしてはいけない、慌てても拙い。せっかくの苔を、毟り取らないように慎重に、気長に取り除く。これは落ち葉に限らず、辛夷の落し物が有る限り続けることになる。 
 畳一枚にも満たない小さな苔庭だが、苔が一面に張り付くには、随分時間が掛かった。一年や二年は、地肌が見えていた。
 そして今は、庭一番の安息所になっている。
 苔の色も、段々に緑が濃くなってきた。
 苔は、直射日光を好まないから、辛夷の木が、程好い木陰を提供してくれたことになる。
 けれども、何事も、過ぎたるは及ばざるが如しと言うではないか。苔の緑は、朝の光りを浴びてこそ殊の他美しく輝くのだ。従って今頃の季節、太陽の位置を確認しながら、辛夷の枝の剪定をしなければならない。脚立を昇ったり降りたり。苔庭に置いた石の前に立って、暫し眺め遣る。風が無い時は、竹竿で枝を揺すってみる。苔の上に、どのように朝陽が射し込むか、枝を伐り過ぎては取り返しがつかないから、見極めが肝心なのだ。一端の庭師を気取った至福の時が...流れる...
と、その時、伐り落したはずの枝が、何処かに引っ掛かっていたものか、一陣の風に吹かれて、目の前に、ドサリと落ちてきた。良い枝振りだったので、迷った末に、エイヤッと伐ったものが、一呼吸置いて落ちてきたらしい。これじゃまるで、時代劇の切られ役が、大見得を切って倒れるようなものだ、まったく!

 辛夷の香気が強く匂った。
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2005年05月10日

図書館寸景

 市立図書館へ。
 連休明けの6日には返却しなければならなかった本を、遅ればせながら戻しに行く。そのうち2冊は、小川洋子の著作。読み切れなかったので、連泊を申し込む。
 地方に住んでいると、新しく「お気に入りリスト」に登録した作家の、昔の本が手に入り難い。その点、市立図書館は、万全とは言えないが、まずまず、拾い読み旁々、思わぬ本を見出したりして、重宝に利用させてもらっている。
 新たに3冊見繕って、受付のカウンターへ。
「一度に、何冊まで借りられるんでした?」
「10冊です」
 10冊とは嬉しい話だが、20日間の期限ではとても読み切れない。
「随分、太っ腹ですねぇ」と言ったら、受付の女性が変な顔をして、笑ってくれない。隣でパソコンに向かっていた女性が、代わりに、クスン、と笑った。(この女性、可愛らしい若奥さん風で、この人の顔を見るのも図書館に行く楽しみの一つ)
 シマッタ!!女性に太っ腹なんて、禁句だよなぁ。悪いことに、その女性は、フトッパラな体型でした。コレって、セ・ク・ハ・ラ?

 いつだったか夏の暑い日、図書館の近くに住む友人のHが、書架の間に置かれた椅子に座っているのに会ったことがある。探し出した本を、取り敢えず椅子の上に置こうとして書架を廻りこんだら、出会い頭に友人を見つけた。Tシャツに短パン、サンダル履き。気軽でいいなぁ。余りにも気持良さそうにお休み中なので、声は掛けずに通り過ぎた。
 後で電話で冷やかしたら、「冷房が利いていて昼寝をするには最高の場所だから、午後は大体図書館通い。座っていた椅子は、俺の指定席さ」と笑っていた。
 図書館も、人によって色々に利用されているんだと感心させられた。
 マ、読書コーナーの長椅子に、ステテコ姿で本を枕に横になられるより良しとしよう。
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人  影

 川沿いのサイクリングロードを通って、運動公園へ。
 見慣れた場所なのに、フィールドも、それを取り巻いているウォーキングの為のフレッシュロードも、今日は妬けにガラーンと広く見える。
 ジョギングをする人も、連れ立って歩く年配者の姿も無い。並木の向こう側にも、人影が見えない。殆ど毎日、芝生の中でバードゴルフの練習に余念の無い誰彼も居ない。体育館の床をドスンドシンと、遠雷の雷鳴の如く轟かせているママさんバレーの女性軍団も居ないようだ。
 一周して駐車場に廻ってみると、正面入り口のゲートが閉まっていた。風に揺れる下げ札を見ると,『月曜日は定休日です』とあった。そうか、図書館ばかりではなく、こういう施設も月曜日は休むんだ。フレッシュロードには、いつも反対側の道路から直接入っているので気付かなかった。

 並木の桂の若葉が美しい。樹皮が痘痕状にゴツゴツしている幹肌からは想像が出来ない。丸味のある優しい葉が幾重にも重なり合っているのに、木の下では、陽光がチョロチョロと足元を照らす。
 野球場の外野のフィールドの上空では、揚げ雲雀が囀っている。鶫の群れが、しきりに芝生に嘴を差し込んでは、何かを啄んでいる。
 チーム名もスコアも消えたスコアボードが、手持ち無沙汰に建っている。 
 チビッ子広場のブランコが、音も無く風に揺れている。
  
 祭りの後の提灯片付け、と言うけれど、その提灯片付けも終わってしまったような寂寥感が漂っている。 
 
 人間の姿がなくても、否、存在そのものがなくても、自然は自然としてある。 
 でも、深山幽谷ならいざ知らず、人工の構築物に人影が無いと、無情感さえ覚えてしまう。 
  
 寂しい、月曜日、公園の昼下がりでした。
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2005年05月09日

花を 食べる(その2)

 花が食材として喧伝されているのには驚いた。調理法、栄養成分表まで表示されており、専門の講習会やら、レストランの案内もあったが、そちらは覗くのも遠慮した。  
 件の栄養成分表によれば、ビタミンAやCの含有量が野菜のそれに引けを取るどころか、優に数倍を超えている花も中にはある。
 食べられる花のことを、エディブルフラワーと言い、海の向こうでは歴史も古く、研究も行き届いているそうで、こうなるともう、一つの立派な食文化と呼ばなくてはならない。でも相手は花だぜェ。 
 当方にとっては、やはり、野蛮な食習慣としか映らない。
 バラを口に咥えたカルメンが、狂ったように踊ったのも、日頃からエディブルフラワーが大好物で、中でも真赤なバラが一番だったからなどと想像すると、オペラの世界も違った風景に見えてきそうで、怖いなァ。 
 こんな花まで食べられるのかと、一々驚いていると、眩暈に襲われそうなので急いでページを閉じてしまった。
 そう言えば、当然のように、食べられない花、と一項目ありましたョ。トリカブトなどなど...
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花を 食べる

 先日、友人のK君が、手に籠を持ってやって来た。盛花のように、藤の花がこぼれんばかりになっている。何時だったか、二人で季節を代表する花について語り合ったことがあった。その時、藤の花も大好きな花の一つに上げたから、観賞用にと、持ち山から採ってきてくれたに違いないと思ったら、そうではなかった。籠を庭のテーブルに置きながら、「サッ、食おう」と言った。
 時分時にはまだ早い。さては、昨晩、酒が過ぎて朝食抜きかと訊くと、一房、藤の花を手に持って、
「これだよ、コレ。天婦羅にして食すると絶品なんだ」と事も無げに宣う。
 冗談だろう、藤の花を食べるなんて聞いたことがない、第一、こんなに綺麗な花を、可哀想じゃないか、と驚いているこちらを相手にせず、卓上コンロ他ご持参の道具一式を整えると、早くも天婦羅粉を捏ね始めている。
 食いしん坊は何かと手際も良い。アッという間に、一皿、藤の花の天婦羅が出来上がった。
「......」
「......」
 モチモチとした食感、とだけ言っておこう。格別、コレゾ藤の花の味、という印象も無い。TVの旅番組などで、タレントが料理を一口、口にした途端
みせる「ん!?んん」と唸る芸も無い。一口で止めた。けれど、人に聞かれれば、食べたことがある、とだけは言える。
 概して、花を食べるのは好まない。菊の花は、食用のために改良された品種もあるようだが、どんなに勧められても口に出来ない。別に偽善者振る訳ではないが、余りにも重々しくて、観賞用として見るのも好きではないだけだ。
 だが待てョ、今の時代、何でも有りの時代に...
と気付いて、インターネットで検索してみると、案の定、アリアリです。 
“食べる花”で検索すると、いきなり大輪の花が目に飛び込んできた。「下宿のおばさん、ごねあの日記」(goneaさん)のホームページに、サブタイトルが、ズバリ、“食べる花”で、トロロアオイの花が紹介されていました。
 食べる、食べない、食べられる、と独り言ちて次に、“食べられる花”を検索すると、「百花繚乱とは見たり!!」、目にも鮮やかな花々の写真と共に、華やかなイラストやキャッチコピーが踊っているではありませんか。
“癒しの花々...”、“身も心も、花の香りで...”、“綺麗な花々を食卓に...”。
 そして極め付き、“食材としての花々”とは驚いた。
(身も心も疲れちゃった。どうやら花の香気に当てられたようです。小休止。次号で再見)
posted by vino at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月07日

お地蔵さんは...


お地蔵さん.jpg 

 知人のTさんから、お地蔵さんの墨絵が送られてきた。濃淡の墨が美しく、何の迷いも無く刷(は)いた手練(てだれ)の筆が踊っている。
 その讃に曰く
 
 右へ行こうか左へ行こか
 まよわずまっすぐ
 この道を行く
 
 Tさんは迷わない人である。信念の人といって良い。空手道の、ある団体の重職に付いていて、普及活動に世界中を飛び回っている。190aに近いガッシリした体躯の、いわゆる美丈夫である。日に焼けた精悍な顔立ちに口髭をたくわえ、一寸見には近づき難い印象を受ける。 
 門外漢の当方にも、痛いほどオーラが突き刺さる。ご存知、ゴルゴ13の目を少し細目にした感じ、と言えばピッタリの姿形なのだ。  
 そんなTさんが、柔らかな筆捌きで墨絵、それも専らお地蔵さんを描き続けている。
 幾分筆太に描かれた地蔵尊の肩の上に、少しデフォルメされたお顔が乗り、面相筆で引かれた眉根も涼やかに、口元が幽かに微笑んで見える。
 Tさんにとって、地蔵尊とはどんな存在なのか、地蔵尊に祈らねばならない事とは何なのか、誰も知らない。人が訊ねても、苦み走った顔を一変、ニッコリと笑って、唯「マ、とにかく、大切な存在です」とだけ、答える。  
 地蔵尊とは何か?長くなるけれど、広辞苑(岩波書店)から引用させて戴く。

地蔵菩薩の略。釈尊の付託を受け、その入滅後、弥勒仏の出生するまでの間、無仏の世界に住して六道の衆生を化導するという菩薩。像は比丘形で左手に宝珠、右手に錫杖を持つ形が流布する(以下略)
 
 四辻や野の辺(ほとり)に安置され、いつも静かに、この世を見守っているやに見えるお地蔵さんに、こんな大きな役目があったとは...。
 不信心なこの身を省みて、Tさんの墨絵に頭(こうべ)を垂れている、この頃です。
posted by vino at 17:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハーブティーを楽しむ

 昨年の春に植えた二株のカモミールが、庭の土が適ったものか、今月に入ってから一抱え程の大株に成長し、腰の丈まで繁っている。真黄色な花蕊を球状に盛り上げて、真っ白な花が沢山咲いた。  
 何回も何回も、庭のテーブルでカモミールティーを楽しんでいるが、花は次から次へと咲いて、株も畳一枚分に大きくなる勢いだ。
 盛りを過ぎる前に、プチン、プチンと花を摘んで陰干しにし、保存して置く。夏バテが気になる秋口に飲む為だ。
 暮れ泥む初秋の夕暮れ、手焼きのクッキーを齧りながら飲む。少しトロミのある、薄黄緑のカモミールティーが仄かに匂って、元気付けてくれる。
 否さ、ビールのジョッキーを傾ける前に、お腹を温めて置く為でサァー。
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2005年05月06日

コーヒーミル見ーつけた!

 隣り市(まち)の行きつけの喫茶店で、コーヒーミルを購入した。(勿体振った言い方で気が引けるが、「買った」では一寸軽いような気分なので)
 よくある、ハンドルを水平に回すタイプではなくて、水車のように縦に回すものだ。本体はズングリとした、レトロな郵便ポストを小さくしたような形をしていて、総高24,5a。天辺の豆の投入口に、玉葱を横に輪切りにしたような蓋が可愛らしい。鋳物製で小振りな割には、ドッシリと持ち重りがする。マットな黒い塗装も似合っている。
 嬉しくて跳んで帰った。
 早速、豆を挽こうとしてギャフン!シマッタ、肝心の豆は何処だ!何と、豆を買ってくるのを忘れてしまった! 
 注文したブランドの生豆を、目の前で焙煎してくれる店だと言うのに...。店の主人も主人だ、一言、豆の有り無しを聞いてくれたらナァー。 
 思い立ったら止まらない性分。仕方がないので、市内の喫茶店に駆け込んだ。前から気にはなっていた店だが、まだ一度も入る機会がなかった。余り身近だと何となく気恥ずかしさが先に立ってしまう。そう、シャイなのです。(自分でこんな事を言うから「厚顔のビ中高年」と言われるのか...)

「コロンビア、100g下さい」
「あーら、済みません、ウチはブレンドしか置いていないの」
「ブレンドは何と何ですか?」
「エッ!?......、○○ちゃん......」
ママが店の女の子に訊ねている様子。
「済みません、ウチのお客さんで何のブレンドかなんて、聞かれたことがないものだから...確かメモが有ったんだけど...」
 オヤオヤ。
「良かったら味見してみて下さい。それで良かったら、ネッ?」
「ハイ、ではブレンドコーヒーをお願いします」
 まずまずの香りと味だった。  
 普段はコロンビア一辺倒なのだが、止む無し。  ブレンドコーヒー100gを頼んでレジの前に立つと
「豆のお金だけ戴くヮ。コーヒーは味見用、マ、わたしの名刺代わりということで...」
「エッ、そんな!?...良い日ですネ、今日は」
「ソッ、わたしの気分の好い日で良かった。ハ、ハ、ハ、その代わり、店の方、また来て下さい」と言って、先客の中年女性と笑い合っている。
 O.K、O.K、肝っ玉母さん、美人ママさん大好き。
 だけど、この人の気分の悪い日って、どんなだろう...と考えながら、店を後にした。
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2005年05月05日

天使の呟き

 新聞のコラムでだったか、神津カンナが、辞書について語っていた。
「子供の頃、三島由紀夫さんに、辞書は引いて終わり、では駄目だ。よくよく味読するように言われたことがある」と。
 日記を付けていても雑記をメモしていても、漢字の綴りが思い出せないで、そこで手が止まってしまうことがある。「思い出せない」のではなくて、元々覚えなかったか、覚えた積もりで通り過ぎてしまっていたに違いない、その付けが、今、回ってきたのだと、自分でもガッカリする。恐ろしい位だ。 
 従って、辞書は片時も手放せないでいる。   
 なかなか、味読までは行かないけれど、時々立ち止まって、目的の字句の前後左右に目を遣ると、成る程、成る程と頷くことが多い。「関連項目」や「類例」に引かれて、とんだ寄り道をしてしまうことも再三再四になるけれど、これも辞書を「読む」ことの楽しいご褒美だろうと思っている。
 先日、英和辞書を引いていて、思わぬ発見をした。「天使」に階級がある、と言うのだ。それに、「天使」はangelとばかり思っていたが、9の階級に分かれていて夫々に名前が付いている。angelはその中で9番目に位置付けられている。(「新英和中辞典」研究社)
 「知らぬが天使」と驚いた。
 インターネットで検索してみると、真野隆也氏他沢山の方々が、神学的に学術的に体系だった研究・考察を発表されている。(興味のある方は是非一度ご検索アレ) 
 ところで、吾等が憧れの「白衣の天使」はどの階級に属するのだろうか。 
 最近、「看護婦」から「看護士」に変身されたようだが、どの病院でも未だに患者からは「看護婦さん」と呼ばれることが多く、それに明るく「ハーイ」と答えて、何の不都合もないようだ。 
(言葉は生き物だからナァ)
 男の「看護士」も随分増えてきたから、「男女雇用機会均等法」では、その辺の事情がどうなっているのか、指針なるものを見ると、例えば求人広告などの場合は「極力女性特有の表現は使わないように」となっている。つまり、『看護婦募集』ではなく、『看護婦・看護士募集』と表現しなさい、と言うのだ。しかしよく見ると、<改善例>の中にも「看護婦」と言う字句は使用可とされているのだから、殆どの病院が一様に「看護士」と呼ぶことにしてしまったことには、疑問が残る。読み足りない、法令上の決まりがあるのかどうか、判然としないのであるが...。 
 最近、掛かりつけの病院で予約診察の受付をしてもらったところ、 当方の担当医の下の名前を「○○ちゃんですネ」と念を押された。恐れ多くもお医者様を「ちゃん」呼ばわりするとは何事ぞ、と見ると、これが可愛らしい看護婦、否看護士さんなのだ。
 同姓の医師が二人居て、若い方の医師を、彼女たちは陰でそう呼んでいるらしく、思わず日頃の習いが出てしまったのだろう。「アラ、失礼」と言って、チョロリと舌を出した。抱きしめたくなる位、可愛らしい。  
 こんな時は、「看護士」さんではなくて、「看護婦」さんと呼びたいナ、僕は。
 だって、彼女たちは何時の時代も健気で、眩しい「白衣の天使」だもの...。
 彼女たちの呟きが聞こえる。
「これでも大変なのよ、このお仕事...」
 
posted by vino at 18:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月04日

万年筆の書き味

 万年筆の書き味は、その万年筆に対する思い入れにも大いに左右されるのではないだろうか...
「遊び」に余裕を感じさせるのは、「遊び」に用意した道具に負うところが多いのと同意であろうと思う。良いものを大切に思い、そのものから返ってくる余韻を楽しむこと、これが「遊び」の極意とも言える。
 良いものは良い。手にする者を鼓舞し、本音に響き合う。このことは、芸術全般にも当てはまろうか...
 万年筆の書き味には、その万年筆に込められた思いが表出する。もっとも、その万年筆を使用して書いた文章が極上のものとなるかどうかは、全く別の問題だが...

posted by vino at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本が熟す、機が熟す

 書店の書架で、愛読しているお気に入りの作家の新刊本が目に入る。作家別コーナーでも、久しく見掛けなかった新刊本だから、早速手にとって頁を繰ってみたいのだが、そんな時、邪険な心が働く。惚れたものに対する恨み辛みではないけれど、「随分待たせて呉れましたね、お久しぶりです」と、嫌味の一つも言いたい気分になる。内心、嬉しくて仕様がないのだけれど...挙句の果てに、その本の所在を横目に確かめながら、他の作家のコーナーに目を移したりする。が、我慢しきれなくなって、おずおず手を伸ばし、表紙や帯を確かめ、本の匂いを嗅ぐと、先ず奥付を覗く。件の作家の健在振りを憶測して書架に戻す。
 今日は買い求めずに置こうか、機の熟すまで、本の熟すまで...
そんな気分になる時がある。
posted by vino at 09:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月03日

フサスグリの記

 フサスグリの実が膨らんできた。今年は例年に無く花房が付いて、樹の勢いも良い。去年の秋の御礼肥が効いたのだろうか。
 それにしても、フサスグリの花は何と地味なことか。緑の花弁の中に、細かい花蕊がひっそりと並んでいて、そうだ、柿の花の極々小さなものと言えば良いだろうか。一房に2,30もの花が咲き揃う。元成りの方から順に結実し、膨らんでくる。半透明の薄緑に濃い目の縦縞が幾筋か。
 子房が脹らむにつれ、雌蕊の集合体が其の頭頂に収斂され、やがて瘡蓋の如く剥がれ落ちる。
 色付くのは数週間後。透明感の有る真紅な粒々に熟して行く。 
 
DSC03248.JPG朝陽に透けて見えるフサスグリの実は、何とも言えず美しい。
 熟した実を口に含むと、仄かな甘さと酸っぱさが口腔一杯に広がる。程の良い上品な味わいと言えば良いか。 
 今年は、果実酒かジャムが出来る位収穫が見込めそうだ、が、油断は大敵。去年、もう少し熟してからと、数日様子見をして失敗した。小鳥たちに先取りされてしまったらしい。青い実が数粒、申し訳なさそうに残されているばかりだった。今年は「こちらの番だぞ」と意気込んでは見たが、小鳥たちは朝が早いからなぁー。それに、一日中見張りをしている訳にも行かず、如何したものか。 
 そこで思い付いたのが、ネット掛けだ。1b足らずの樹高だから訳はない。言うならばゴミ袋を一回り大きくしたサイズのネットを園芸店で求めて、頭から被せて...見た。
 だけど、何とも不粋なんだな、これが! 
 瑞々しい若葉と愛らしいい果実が見えなくなってしまった。そう、大きな声では言えないが、 「...の厚化粧」と言った塩梅なのだ。
 ヤーめた、どうしよう、ヤーめた、どうしよう...
そこで考えた。
「愛でる」と言う言葉には、広い意味で「観賞する」と「賞味する」が含まれるに違いない。
 そこでだ。
 小鳥たちは「観賞する」だろうか?出来ないはずだ。こちらは「観賞」出来るぞ!
 小鳥たちは「賞味する」だろうか?出来る。トホホ、こちらだって「賞味」出来る,否、「賞味」したぁーい!!

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影を見送る

 病院のバルコニーは、日当りの良い場所で、風さえなければ入院患者達の格好の憩いの場となる。 
 早春のある日、入院患者の老爺と誰かの付き添いの中年女との会話が聞こえる。
「おじいさん、寒くないの?」
「ウ、ウン」
「誰かみてるの?」
「ウ、ウン。ばあさんが...」
「おばあさんが帰るの、何処?」
「あの、白い自動車の前の方...」
「白い車?誰も見えないネ」
「いや、彼処を歩いてる...」
「何処、あの倉庫の辺り?」
「ウ、ウン」
「誰も居ないよ、おじいさん」
「...今、あの家の陰から出てくるよ」
「フ−ン。おばあさんはお幾つになるの?」
「ウ、ウン。七...十、七十一、七十二、七十三になったかな?」
「七十三?まだ若いんだ。あッ、あの人かな?」
「ウ?違うな、黒っぽいのを着てるんだ」
「何処まで帰るの?」
「Mまで...」
「Mまで!?じゃ大変だ。バス、電車?」
「バスだ」
「もう、停留所に着いてるんだよ。ここからは見えないネ、生憎だ。おばあさんは、もう、行っちゃったンだよ、もう」
「ウ、ウン...」

 老爺には、たとえ見えなくても良かったのだと思う。今更、お互い声を掛け合ったり、手を振ったりするわけでもない。気が済むまで、老妻の歩幅を思い、ひと時、見送れば、それで良かったに違いない。姿が見えなくても、老妻の後姿、影を見送ってやれば...
posted by vino at 09:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月02日

エスカレーター

 エスカレーターが怖い、などと言うと、如何にも世代ズレしたようで情けない話であるが、これが怖い。否、怖くなったのである。
 先日、駅ビルの書店に予約した本が入荷したという知らせを受けて取りに行った時のこと。いつものように、下目使いに(エスカレータを直視すると、下から、鉄の櫛歯状の踏み板が湧き上がってくるようで、足が竦んでしまうので、半分上を見て半分は下を見る感じ)間合いを計りながら第一歩を踏み出したが、案の定、第一段目で踏鞴を踏んでしまい、その勢いでバランスを取る為に。。。
続きを読む
posted by vino at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ルームランナー(その2)

精通していたはずで、また性格から推しても、ボルトや留め金具をルーズに締めたままにしていたとは思えないのだ。だとすれば、使用中にそれらが緩まないように締め付ける体力が、其の時には最早、残っていなかったに違いない。
 そう気付くと、急に涙が溢れてきて、解体する手元が見えなくなってしまった。
 手を休め、形を無くしつつあるルームランナーを見つめたまま、父のことを考えていた。何処までも何処までも走り続けている後姿を見送りながら...
posted by vino at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ルームランナー(その1)

 手術退院後、父は体力を回復する為にと、ルームランナーを買い求めた。毎日のように、同じ時間になると、ゴムのローラーの上を歩いた。腰には、万歩計が揺れていた。

 休日の一日、父が亡くなってから数年、そのままにしていた遺品や日記帳を整理した。埃を被っていた件のルームランナーも処分することにした。
 いざとなると、結構な大きさで、市の粗大ゴミ収集日にお願いするにしても、ある程度解体しなければならない寸法なのだ。
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posted by vino at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする