2005年09月30日

岩沙参の根の下には

 岩沙参が、紫の花を咲かせている。互生した細長い葉の数よりも多く、10輪ほどの、釣鐘状の花が風に揺れている。この花は、繊細な茎の先に、ただひたすら下を向いて咲く。
 野草図鑑で見てみると、「キキョウ科ツリガネニンジン属。フォッサマグナを中心とした地域にのみ自生している。」とあり、南アルプスの鳳凰三山には、本種の高山型と考えられるホウオウシャジンが生えている、とも紹介されていた。
 これに似た花に、同じ科、属に数えられる蕎麦菜があって、当地でも、里山の小道の傍らに群生しているのが見られる。刈り払われた夏草の中から、いち早くスッキリと伸びきった姿で、青紫色の愛らしい花を咲かせている。この蕎麦菜、春の若葉の御浸しは絶品と、山野草を食べ歩くことを人生の無上の楽しみとしている知り合いのKさんから聞かされているが、当方はまだ食味してはいない。
 ところで、上記の、図鑑からの引用の中に、聞きなれないフォッサマグナという字句が見えたので、早速インターネットで検索したところ、これがちゃんとありました。その中の、『フォッサマグナにかんする基礎知識』というサイトの記事から、拾い読みをさせて貰うことにする。
「フォッサマグナ(Fossa Magna)はラテン語で『大きな溝』という意味。古い地層(主に中生代、古生代の地層)で出来たU字溝のような溝で、そこに新しい地層(新生代の地層)が6,000m以上も積もっている。溝の真ん中には、大きな割れ目があって、それを通ってマグマが上昇し、南北の火山列ができていると考えられている。」
 添えられている、ナウマン博士のフォッサマグナの断面図を見ると、新潟の直江津と糸魚川から静岡の駿河湾に抜けるように大きな溝があって、北から南に、焼山、妙高山、八ヶ岳、そして富士山、それに鳳凰三山を含む南アルプスまで見事にその中にすっぽりと入っている。
 近い将来に起こると予想されている東海沖地震、そして大きな被害をもたらした先の新潟での地震なども、このような地形が関係していると考えられるともあって、大変興味深く、記事を拝見した。

 小さな鉢植えの岩沙参の根が、深く壮大なフォッサマグナを探り当てたと言えば大袈裟に過ぎようが、予想外の知識の逍遥をさせてもらったことは確かだ。
 紫花の隣にある白花の岩沙参は、やっと蕾が脹らんできたばかり。こちらは根っからの園芸種のせいか、葉も茎も花の数も、紫花とは比較にならないくらいに大振りで元気そのもの。
 でもどちらの花も、揃って下向きに咲く。
 めっきり涼しくなった秋風には、可憐に咲く岩沙参の花が、よく似合う。

 
posted by vino at 13:03| 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月27日

宇宙的虚無感

 すっかり刈入れを終えた稲田の彼方此方で、稲藁の野焼きの煙が立ちのぼっている。
 煙は、里山の中腹ほどの高さに棚引いて、横一線に連なる。見方を変えれば、中空に湧いた煙が、幾筋もの滝となって流れ落ちているようにも見える。
 夏には、枯れ草を焼く煙は、靄のように忽ち辺りの空気に混じり込んでしまい、この季節のように風物として見ることは出来なかった。
 山の端に沈みかけた秋の陽が逆光となって、空が明るい分、日陰の山肌が暗く沈んで行く。
 群れ集まったアキアカネが、山影をホリゾントにして陽に浮かぶ。命の言祝ぎ、狂喜の舞。
 飛び交う数だけ、光が舞う。
 見惚れているうちに、陽が沈み、トンボたちも忽然と姿を消してしまった。
 虚無感に襲われるたびに思い浮かぶのは、「エントロピーの法則」。

 「エントロピーの法則」
 宇宙のすべての物理的変化の方向性を支配する法則。システムの中のすべてのエネルギーは、時間の流れとともに、最もありがちなパターンに従って拡散する。システムの中の個々の粒子が任意で乱雑な動きをするためである。
(オックスフォ ード英語辞典)
 閉じたシステムの中でのエントロピーの量は、 時間とともに増加する。
     (グルジェフ・インターネット・ガイド)

 この「エントロピー」という概念についての考察は、『ぼくの哲学日記』(森本哲郎著)で初めて知った。

○熱の移動は、エネルギーと密接な関係にある。秩序をつくり出すのはエネルギーであり、つくり出された秩序が無秩序へと落ち込んでいくのは、そのエネルギーが失われていくことである。そこで、秩序がどれくらい失われたのかを量的に測定するためには、無秩序の程度を「量」によって示す必要がある。その量をエントロピーというのである。したがって、エントロピーが増えれば、それだけ、秩序は無秩序へと崩れたことになる。

○風呂をわかして、入るのを忘れ、放置しておけば、湯はさめるだけである。もういちど外から加 熱しないかぎり、ぬるい湯が自然に熱くなる、な どということはありえない。

○この不可逆の過程を確固とした式にまとめたの が、熱力学の第二法則、すなわち、19世紀のド イツの物理学者、クラウジウスが命名した「エン トロピーの法則」である。

○宇宙を、こうした湯船にたとえてみるなら、発散された熱はしだいに温度差のない状態に向かい、そこで永遠に安定し、静止してしまうはずだ。そして、この宇宙には、もはや仕事をするエネルギーは、まったく存在せず、したがって何事も起こらぬ、いや起こり得ぬ終末がやってくる。クラウジウスは、そのような宇宙の終末の状態を「熱の死(ヴェルム・トート)」と呼んだ。

 気付いて振り返ると、中天に十六夜の月が明るい。
 先日、四日市に行ったときに、小一になる孫たちと、満ち始めた月を眺めた。
 双子の兄が聞いてきた。
「宇宙って、何処にあるの?」
 重ねて弟が尋ねる。
「宇宙って、何?」
「ほら、此処にあるじゃないか。君たちの此処も宇宙だよ」と、二人の鼻の先を指したら、甚く感動していた。
 なけなしの宇宙論を聞かせて、太陽系を水平線上に並べたとして、地球は自転しているから、「君たちは昼間は上を向いて立っているけれど、夜には地球の下側に、まるでぶら下っているようになるんだ」と言ったら、二人は目を点にして、月を見つめ続けていた。

○私たちは、カオスから生れた子どもである。そして何かが変化するとき、その奥底では腐敗が起きている。根底には、ただ崩壊があるのみで、カオスがくい止めようのない波となって押し寄せてきている。カオスになることには、何も目的などはなく、あるのは、カオス状態に向かう方向だけである。宇宙の内部を奥深く冷静に見つめると、このような、なんとももの寂しい真理が見えてくるが、これこそ私たちが受け入れなければならない現実なのである。
(P・W・アトキンス『エントロピーと秩序』米沢富美子・森弘之訳)

 孫たちの時代、地球はどうなっているのだろうか。終末観を笑うものは、遠い遠い何億年も先の未来を思い煩っても仕方がないだろう、と言う。当方には、却ってそちらの方こそ厭世的に聞こえてしまうのだが・・・。
“宇宙的虚無感”からすれば、鼻の先もまた宇宙の如くに、“その時”もまた、つい鼻の先にあるのだから。
  
posted by vino at 11:47| 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月25日

「1週間のご無沙汰です・・・」

 1週間ほど、長女の嫁ぎ先の四日市市に行ってきた。東名高速経由、片道550KMの長距離ドライブだったので、少々疲れた。ここ2・3日、時差ボケみたいにボーッとして過ごしている。
 
 台風17号の影響で、風が吹き荒れている。雨はさほどのこともなく、直撃も免れそうなので一安心しているところ。
 
 先日、知り合いのIさんから分けてもらった片栗の球根を、3ヶ植えた。小指の先程もない頼りないくらいの球根だった。
「愛情を注げば、来春に花が見られるよ」とIさん。半日陰が良いとのことだったので、団栗の生っている小楢の木の下に穴を掘り、腐葉土をたっぷり入れて植えた。
 Iさんは白花の片栗も持っている。こちらは、2・3年前に、偶然山の自生地で見つけた珍品。まだ分けつせずに一株しかない秘蔵種。花木センターなどに行っても、まず見つからない。挙句に「有ったら、こちらが分けてもらいたい」と、店員に言われる始末。何年か後に分けてくれるよう、Iさんに固く固く約束してもらった。
 小楢の落ち葉を潜って、楚々と首を擡げて咲く片栗の花を想像しただけで、早い早い、来年の春が待遠しくてならない。
 いつの間にか、ウメモドキの実が赤らんでいる。紫式部も白式部も、実が充実してきているから、色付きが見られるのも間近のようだ。
 実の生る木は楽しい。5・6年前に植えたナナカマドが、今年初めて実を付けた。今年こそは、真赤な紅葉と実生りを楽しもうと思っていたが、留守にした僅か1週間の間に、葉も実もすっかり姿を消してしまっていた。もともと寒冷地の植物だから、当地では無理なのか知らん。それにしても、今年の夏の暑さと、何時までも続く残暑が恨めしい。
 毎年、秋になると、ガマズミが欲しくなる。秋櫨の木も、是非庭に植えたいと思っているが未だ果たせないでいる。
 その前に一つ、難問を解決しなければならない。花好きな家人との領土合戦に勝たねばならないのだ。彼女は今、秋の花の手入れと、来春の花の仕込み準備で目の色が変わっている。
 箴言:悲しいことに、花を愛する人が必ずしも心優しい人とは限らない。薔薇に棘のある如く。

posted by vino at 15:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月14日

廃園のとなり

 なまじ、人の手による痕跡が残るだけに、廃園には自然に帰りきれない痛ましさがある。何処かちぐはぐな、自然の流れに逆らうもの、自然に溶け込みきれない無様な空気が漂う。
 当方の住まいの近くに、二つの廃園がある。二つの、というより、二つの家族の、と言うべきだが。
 それらの当主は、どちらも50半ばにして急死している。農薬散布の薬害説と、深酒による病死説があった。そして両家とも、後継者がいないまま、葡萄園は放置され、荒れて行った。
 葡萄園にしろ何にしろ、、果樹園に農薬散布は欠かせないようで、果樹に葉のついている間は、月に数度、梅雨時には晴れ間を惜しんで一週間と措かずに散布する。
 乗用タイプの大型のタンクを持った噴霧器からは、果樹の枝を突き上げんばかりの勢いで、霧状になった農薬が飛散する。防護マスクや合羽などで装備はするが、作業が終わった後は農薬を頭から被って、びしょ濡れで帰って行く。
 果実への残留農薬の濃度は、人体の健康に影響はないとは言うものの、日頃散布の様を目の前に見ていると、やはり気にしないわけには行かない。
 しかし当然のこと、廃園には農薬散布は必要ないこととて、人の姿も絶え、日に日に荒れて行くのを見る。 
 そんな廃園にも、春が訪れる。

 廃れたる園に踏み入りたんぽぽの
 白きを踏めば春たけにける
        北原白秋『桐の花』 

 この歌の、「たんぽぽの、白き・・・」が謎だった。当地では、たんぽぽと言えば黄色の花の代表、とまで思っていたからだ。
 廃園の感傷に重ねて、咲き了えたたんぽぽの球状の冠毛のそれを詠ったものと思っていたのだ。ところが、村山貞也氏の『人はなぜ色にこだわるか』によれば、何のことはない、九州地方では、たんぽぽは元来白い花である、シロバナタンポポが主流なのだと言う。
 白秋は九州の人だから、白いたんぽぽを詠って何の不思議も無いわけだ。
 でも、白秋の時代と今と、変わりは無いのだろうか。九州の人に、一度訊ねてみたいと思っている。

 廃園の夏は凄まじい。伸び放題に伸びた雑草が生い茂り、アッと言う間に大人の背丈を追い越して、果樹園を覆い尽くしてしまう。
 薄とセイタカアワダチソウが拮抗して、猛々しい勢いで覇を競い合っている。柳の木の生長も早い。春に見られたたんぽぽやイヌフグリ、それに野甘草などは影も形もなく、飲み込まれてしまっている。果樹の枝を支えるための支線や、それらを縦横に緊張する支柱は、全て、蔓草に覆われ、すっかり様変わりしている。
 まるで巨大な緑のモンスターだ。得も言えぬ緑色の生き物が、その巨体を横たえているようだ。
 風の強い日には、その巨体が禍々しく蠢く。支線に纏いついた蔓草が太い縄となって波のように畝って行く。うねりの下から、時折姿を現す茶灰色に枯れた葡萄の幹は、緑の怪物の巨体を支える脚の如く屈曲して見える。

 大粒の葡萄の品種、“巨峰”が世に出て何年になるのだろうか。当地も、“巨峰”の特産地として定着し、いずこの葡萄園も、この季節、土曜日や日曜日には、家族連れで賑っている。
 知り合いの生産農家の話によると、東京の市場では、葡萄王国・山梨のブランドが圧倒的な強さを誇っており、同じ品種・等級の商品でも、2割近くも値付けに差が出ることもあるそうだ。だから、売れ行きにバラつきは有っても、言うところの庭先取引、果樹園での直売でカバーしなければ、立ち行かないのだと嘆いていた。
 安値でも、ある程度の出荷数量を確定できる市場出しをするか、売れ行きが不安定でも直売にして若干高値で捌いて利益を得るか。野菜と異なり、短期間に旬を競う果物だけに、悩みは尽きないようだ。
 しかし、収穫の秋はやはり楽しい。篤農家の多い果樹園経営者は、寸暇を惜しんで働いている。
 今年は夏の暑さが厳しく、一頃降雨不足だったこともあって成熟期が遅れ気味だったが、ここへ来て成熟が進み、甘味が一段と乗ってきているとか。
 色付いた田んぼの稲刈りも始まっている。
 
 黄金色に輝く稲穂を縁取る緑の畦道に、満開の彼岸花が深紅の彩を添えている。
 空は青く高く澄んで、白い雲がゆっくりと流れて行く。
 
 廃園にも、秋は訪れようとしている。
posted by vino at 14:30| 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

「あ」

 以前、印刷会社に勤めていた知人のOさんの知り合いの人が、本を出版したことがある。
 その人の名は、「あ」さん。
 印刷の世界に疎いので、その本のサイズを専門用語で何版というのかは知らないが、B5の用紙と、ほぼ同じサイズだったと思う。
 帯が掛けられて、固い表紙で装丁されて、ま、本格的な製本だった。
 頁数は「あ」。本のタイトル、作者名も「あ」。最後の奥付らしいところにも、頁の半分ほどの大きさに四角に罫線で囲われた中に印刷されているのは、文字の大きさに大小はあるものの、全て「あ」だった。
 何から何まで、「あ」尽くめの本だった。
 本文と思われる頁のところどころに、本文の「あ」に、小さく「あ」とルビまで振られている箇所もあって、「あ」以外の文字は見当たらない。
 「あ」さんに、印刷・出版を頼まれた時は、「アッ!?」と思ったよ、とOさんは笑っていた。それでいて、編集の打ち合わせは大変だったらしい。文字の大きさ、文字の数、改行全てに亘って、「あ」さんは細かい指示、注文を出す。何しろ目にするのは「あ」ばかりだから、仕舞いには何が何やらこんぐらかって、「往生したよ。」

 その後「あ」さんは、M市の商店街の一画のシャッターに、「あ」を書き連ね始めた。 
 地色は商店主の好みの色を使うものの、絵柄は全て黒一色で書かれた「あ」という文字だけ。
 文字の大きさも書体も、よくもこれだけの種類、書き分けたものだと感心するほど多種多様だった。そして何より驚いたのは、10数軒の商店のシャッターに文字を書くのに、製作日数僅かに三日間。それも、予め指定した地色に塗装屋さんが仕上げた後に、何時とは告げずに、神出鬼没。深夜に作業をしたものか、「あ」さんの作業姿を見た人は誰も居なかったという。商店主たちと折衝したのは仲介役の設計士だったから、当事者で、「あ」さんの顔を直接見た者はいないのだ。
 Oさんも設計士も、「あ」さんの正体は他言無用と確約の上、夫々の仕事を引き受けたので、未だに「あ」さんが何処の誰なのか、話しては呉れない。
「あ」さんが、これほど「あ」に拘る理由も分からない。
 しかし、「あ」の本をOさんに見せられて手に取った時、「あ」さんは、きっと、深い悲しみを胸に抱いている人かもしれないと、何故か思ったことを憶えている。

「あ」という本が、書店に並んだという話は聞かなかったから、あれは「あ」さんの私家版として出版されたものに違いない。

 だって、もし「あ」という本が書店の店頭に並んだとして、お買い求めになりますか?
posted by vino at 16:18| 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月09日

交差する時間 - セーターの毛玉

 下ろしたてのセーターを着て
 一寸はにかんでいる Tさん。
 濃茶の極太の毛糸で編まれた
 ボートネックから
 しわくちゃな厚手の綿の
 白いシャツが覗いている。
 ボタンダウンの小さなボタンが 
 片方糸が解れて
 ぶら下がっている Tさん。  
 「無頓着な人ね」
 優しく微笑むN子さんの目が深い。
 
 幾日も幾日も同じセーターを着て
 笑っている Tさん。
 中に着るシャツが 
 白だったり黄色だったり 
 青だったりレンガ色だったり 
 色々変わるけれど 
 セーターは何時も同じ。
 
 「あれ!?それって毛玉よ」
 或る日N子さんが嬉しそうに大きな声で
 Tさんを覗き込む。
 「毛玉が似合う人って居るのね」
 愛しそうにTさんの肘に手を遣って
 小さな毛玉を摘む。
 掌の上に乗せて陽に透かして見る。
 「毛玉って作った人に似るんだ」
 N子さんがフッと笑った拍子に 
 毛玉が飛んだ。
 Tさんの生成りの畝の太い
 コーデュロイのズボンの
 太腿の上に落ちて
 其処で生まれた毛玉のようにくっ付いた。

 N子さんとTさん二人顔を見合わせて笑っている。
posted by vino at 06:06| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月08日

交差する時間 - 何時のこととは言えないけれど

 それは起こったのです。
 何時のこととは言えないけれど。
 (ずっと沈潜していたことだもの)

 忘れていたのに覚えていたこと。
 (ずっと沈潜していたことだもの)

 わたしのことであって
 わたしのことでなかったもの。

 だからわたしは
 それは<魂の叫び>と呼びます。

 何故急に心に浮かんで来たのか。 
 ずっと沈潜していたことだのに。

 だからわたしは
 それは<愛しいもの>と受け止めます。

 わたしのことであって
 わたしのことでなかったもの。

 何時のこととは言えないけれど。
 
posted by vino at 20:33| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

交差する時間 - プリズム

  この空をプリズムで埋め尽くしたら
  却って光を失くしてしまいます。
  
  七色の光は空の彼方へと突き抜けたきり
  戻れない。
 
  そんな罪なことは出来ません。
  それでは淋し過ぎます。

  だから一つずつ。

        ○ 

  この世のみんなが一つずつプリズムを
  手に持って
  七色の光を放てば
  時を貪った罪を忘れて
  人は生まれ変わることが出来ます。

        ○

  プリズムで人は光と遊ぶことが出来るのに
  時と遊べないのは何故でしょうか?

  それはね
  プリズムの中に
  封じられた自分を見るからです。

        ○

  何時のこととは言えないけれど。 
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2005年09月05日

風 流 その2

  その人は、私は薔薇が嫌いだと言っ
 た。大嫌いだと言ったとしてもおかし
 くないような口調と表情でそう言った。
 それから数分後に私は独りになった
 時に、手帳を出してこっそり書いた。
 「薔薇を嫌う者は薔薇をよく見ていな
 い。」
  それより一年程前に、若し私に花を 
 下さるなら薔薇を下さい、私は花のう
 ちで、薔薇だけが大好きなのですと言
 った人のことを想い出した。私はその
 人に薔薇の花を贈らなかった。もう一
 度手帳を出してこう続けた。「薔薇の
 花だけを好む者も亦、薔薇をよく見て
 いない。」
  この言葉はこれで落着いたように思
 われたが、そのために私の中から二人
 の姿は消えた。
 (串田孫一断想集『薔薇の棘』・ふらんす堂)

 概して、切り口上に、決め付けた物言いをする人を好まない。当方が、優柔不断な性向だからか、「あやふや」を良しとして時に戸惑うこともあるが、なに、懐の深さの表れだと、開き直ったりしている。
 
 距離を置いて見る。距離を置いて考える。時間を置いて決断する。いずれも、意識を遊ばせながら事に当たる。これがなかなか・・・。

 直情径行の人は怖い。感情の落差の大きさに驚かされる。そして、前言を手も無く翻して平然としている者が、この種の御仁には多い。

 季節の移り変わりも、緩やかが一番だ。だから、春夏秋冬、四季を持てることを何よりの喜びとする。音楽のテンポに倣えば、一季より二季、三季より四季と細分化されれば、それだけ季節の移ろいも速く、忙しなく感じられそうだが、この場合は全く異なる。夫々の季節が十全として際立った特徴を持ち、メリハリが利いている。季節毎の美しさを持っている。楽しさを感じさせてくれる。
 堪能しきった時に不図気付くと、次の季節が端境に顔を覗かせる。
 「目には清かに見えねども、風の音」が、それとなく教えてくれる。
 
 風の音に驚くことを、人は風流と名付ける。 
posted by vino at 14:17| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

風 流

 天地が揺らぐほどに喧しかった蝉の声も、今や遠くになって、近くの草叢では秋の虫の声が聞こえ始めた。朝夕には冷気を覚える日もあり、百舌の高鳴きが辺りの空気を突き破る。
 庭の山法師は、赤らむ前に実の殆どが落果してしまい、紅葉出来ずに落葉も繁く、今年の夏の暑さが酷しかったことを物語っている。
 ウメモドキ、紫式部、白式部の実は、まだいずれのものとも分からない緑の小さな果玉に過ぎない。赤や紫、そして白玉に色付くのはまだ先のこと。団栗の実も、はち切れそうに膨らんではいるが、栗色に色付くには、やはりもう少し時間が掛かりそうだ。
 寒冷地に向く花と聞いていたので、小楢の木の下に、せめて半日陰で、と植えたブルースターはまだ花を付けている。咲き始めたのは確か7月の上旬だったから、2ヶ月以上も咲き続けていることになる。2年目の今年は、小楢の枝を掻い潜るように茎を蔓状に伸ばして、まだまだ咲き続ける勢いだ。一方の茎には、茶色に色付いた莢状の実が割けて、中の種子の綿毛が覗いている。今日当たり採取しなければ、弾けて何処かへ飛んで行ってしまいそう。
 
 家人の手入れしている幾株かの薔薇の木に、小振りな深紅の花が咲いている。名前は分からない。薔薇好きな知人に株分けして貰った物だそうだが、名札が見えなくなって、そのままになってしまっている。この秋に、その知人の薔薇を見に行く約束をしているので、その時に名前を聞いてくると言っていた。
 花木は、山野草をも含めて、その名前を知っていた方がずっと愛着が湧く。人間同士だって、お互い名前を覚えたほうが良いに決まっている。親しくなるから名前を覚えるのか、名前を覚えたから親しくなるのか、相性もあったりするから一概には言い切れないこともあるだろうけれど。

「ふらんす堂」の編集誌『ふらんす堂通信』105に、串田孫一氏の『薔薇の棘』が紹介されている。併せて、この7月に亡くなった串田氏の人となりと氏との触れ合いを、編集子が愛惜の情を込めて披露している。
 編集子に倣って、引用させていただこう。
(次号へ続く)
posted by vino at 11:04| 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月04日

筋彫り その2

「先生、今でも心残りなんだ。俺、女に恵まれなくてねぇ、弁天様に色気がないんで、罰が当たったのかなぁ」
 回診に来る医師に、Hは本気で訴える。
 ナースステーションでは、病状も然ることながら要注意人物扱い。検温や点滴のセットに行くと、必ずHの手が、看護師たちのお尻や太腿に伸びてくる。そして瞬時のうちに、入念に弄るのだという。
 看護師たちは、Hが死の病に苦しんでいるのを知っているので、手を払い除けながら、「今日も元気で良かったわね」と笑っている。
 Hには、今までに三人の女性との間に、合せて四人の子供がいる。女性たちは皆献身的であったが、一人の女性と棲み始める前に別の女性が介在し、女性たちの間でHを巡って、何時も悶着が絶えなかった。

「おじちゃん、この女の人、石鹸で落ちないの?」
「落ちない、落ちないょー。これはね、おじさんの大切なお守りさんなんだ」
 ある夏の日、Tの家に遊びに来ていたHが、Tの子供を誘って一緒に風呂に入ったことがあった。
 子供が見たのは、Hの背中に彫られた弁天様の刺青だった。彫られたと言っても、それはホンの筋彫りで、絵柄もはっきりせずに、ただ弁天様の顔だけが薄っすらと微笑んでいる半端なものであった。根が続かなかったのか金が不足したのか、当人も傍のものも、見るたびに戸惑うほどに貧しい刺青だった。  
 
 出身地の町の火葬場で荼毘に付されたあと、葬儀は、Hの実家に身を寄せていた妻の手によって執り行われた。 
 疎らな参列者たちは真夏の陽射しを避けて、三々五々、僅かな日陰に屯し、忙しなく扇子で風を送ったりハンケチで汗を拭ったりしていた。
 誰も泣いてはいなかった。
 疲れきった顔の妻と、残された幼い二人の子供、誰の係累か、一組の老夫婦、これが親族のすべてであった。彼らもまた、流れ落ちる汗に苛立っている風であった。
 日差しが強い分、家の中が暗く、そして小さく見えた。 
 読経の最中も、人々は暑さにウンザリとしていて、誰一人悲しみに浸っている気配さえなかった。
 線香が濃く匂った。 
 参列者の間を、放し飼いの鶏が二羽三羽、餌を啄ばんでいたが、擦れ違い様思い出したように、雄鶏が雌鳥の背に乗って交尾をした。
 
 雄鶏の羽ばたきで、小さな風が起こった。
posted by vino at 07:48| 掌編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

筋彫り

 待合室から出ると、突然蝉の声が襲ってきた。今までの静寂はなんだったのか。深い庇を出て、Tは空を仰いだ。振り向くと、屋根の上に頭だけ覗かせている排気塔から、ボイラーの鈍い燃焼音とともに熱気がすさまじい陽炎となって立ちのぼっていた。
 Hもこれで、やっと業から開放されるのだろう。「弁天様」がHから離れる。そして煙の如く空に消えてゆくのだろう。陽炎の中に、紅蓮の炎を見たような気がして、Tは小さく溜息をついた。

「憎らしいわ。だけどなんだか憎めないのよ、あの人は」女は氷を割り続けながら首を傾げた。
「いつの間にか、あの人に同情させられちゃっているのよ。ハイ、お待ち遠様」
「それで、寝たのかい、奴と?」
「誰が!?わたし!?馬鹿なこと言わないで頂戴ッ」
 女はTのグラスに作ったばかりの水割りを、奪うように一気に飲み干した。

 Hは、幾つもの職を転々としたが、どれ一つとして物になったものが無かった。金が有るのか無いのか、知人友人から寸借しては、女と遊び歩いていた。知人友人とはいえ、少しでも長く付き合った者たちは、Hの行状を知っていたから、誰も金を渡す者はいなかった。従って、一度や二度会った者ばかりで、知人友人とはHからの言い分であって、先方はホンの顔見知り程度にしか、思っていないのである。そんな周囲の人たちから、何時とはなしに寸借しては、数ヶ月ほど姿をくらますのがHの手であった。
 いっとき、Hが塗装工になったことがあった。彼の言う知り合いの家の壁の塗り替えを請負い、内金を貰って家の前半分を塗り終えると、訳ありを頼み込んでその知り合いから工事代金の残金を受け取ると、その翌日から姿を消してしまった。
 Hが、その家の壁を塗り終えたのは、それから一年後であった。発注者からすれば、漸うの思いで家の壁を塗り終えたことになったが、誰が見ても、それは、色の違う塗料で塗った具合であった。Hの言い訳によると、メーカーも塗料の出荷番号も同じものということであったが、一年の間に、前に塗った部分が日焼けしてしまい、前後塗り終えてみると、すっかりツートンカラーになってしまっていた。
(次号へ続く)
posted by vino at 21:48| 掌編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月02日

乾 杯 その2

「いつだったか、Sちゃんたら、誕生祝だなんて、花束、一抱えもあるような大きな花束貰ってきたことがあったでしょう。余り立派な花だから、わたしそれをドライフラワーにしてあげた。そっくりそのまま逆様に吊るしてね。覚えてる、Sちゃん?」
 Sちゃんというのは、結婚前から細君が呼んでいるNの愛称である。
 Nはグラスを口につけたまま、首を横に振った。
「その日の前だったかに、Sちゃんの車に、真赤な櫛が落ちていたじゃない、ね?二人で、これは一体誰のだろうって・・・。柄が長く尖った櫛で、美容院で使うようなものだった」
 そこまで聞いて、Nは急に上目遣いになって、一瞬息を止めた。
 
「その櫛がサ、ドライフラワーの真ん中、まるで花束の花蕊のように刺してあった。赤黒く乾いたバラの花と、白茶けたバラの棘の中に、赤いナイフが突き刺さるように見えたんだ」
 Eは、何時もの酒場のカウンターで、Nが呟いていたのを思い出した。そしてテーブルの下で、Nの足が小刻みに貧乏揺すりを始めたのを見て、手洗いに起った。
 
「何時も置いてあるのか?」
「いや、時々見えなくなって、ホッとして忘れるわけさ、そんな時、また忽然と現れるんだ」
「テーブルにか?」
「ん、参ったよ」
 Nは、口に含んだ酒に噎せながら頷いた。 

 その櫛は、Nにも心当たりがないと言っていた。赤い、取っ手の長い、だから如何にも櫛、と言った代物で、携帯用の小振りなものとは違うのだから、例えば鏡台の前で使うものとすれば、細君にしろ、自分のものなら忘れるわけがない。テーブルの上に艶然と置かれた櫛を、自分の手で始末するのは、何故か言い訳じみて罪なことのように思えて手が出せない、とも言った。
 だとすれば、Nの心のどこかに、思い当たる節があるのかも知れない。

 離婚届は、翌日、元細君が、朝一番に市役所に届けに行った。

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2005年09月01日

乾 杯

 Nの細君が帰ってきた。家を出てから、8ヶ月が過ぎていた。
「今、兄の家からなの。お食事、ご一緒にお願いしたいの。それから・・・いいわ、あとは会った時に話す」

 Nの部屋には、すでに別の女性が居る。細君はその事はまだ知らないらしい。
「兄も一緒に行きますので・・・」と言って、細君は電話を切った。
 Nは友人のEを誘った。立会人になって貰うつもりだ。

「食事の前に済ませてしまいましょう」と言って、細君はバッグから、一枚の書類を取り出した。
「ここに名前を書いて、それからここに、印鑑ね」
 Nは、細君の言うがままに、離婚届の書面に著名をして印鑑を押した。まるで生命保険の契約手続きみたいだなと、Eには思えた。
 二人ずつ4人掛けのテーブルに、程なく料理が運ばれてきた。ことがことだけに、余り夜遅くというわけにも行かない。夕食ということにはしたが、細君の兄の勤めの都合で、午後4時半に、市内のフランス料理のレストランに集まった。3月とはいえ、その時間には、まだ外が明るい。春めいた陽射しが窓越しに輝いて見える。夜なら夜で、辺りの暗さに包まれれば落ち着きも出るものを、暮れなずむ光の中で、落ち着かぬ気分のまま食事が始まった。
 細君の希望で飲み物はワインになったが、いつものように酒場で飲む雰囲気とは異なり、NもEもワインを持て余し、そのことでも二人は少し感傷的になった。
 突然、細君がグラスを上げると、
「忘れたっ!カンパーイッ!」と、叫んだ。明るく晴れやかな声であった。男三人は、黙ってグラスを上げた。Eには、ワイングラスが夕映えを受けて、赤く輝いたように見えた。

「そう言えば、Sちゃん、あったわね色んなことが・・・」
 グラスを宙に浮かせたまま、細君が呟いた。
「そう言えば、あったわよ」
 細君が振り向いたレストランの奥の一隅に、小さな丸テーブルがあって、その上に置かれた花瓶には毀れ落ちそうなくらい大仰に、ドライフラワーが飾られていた。
〈次号へ続く)
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