2005年10月30日

秋、一景


秋一景2005103073b821e8-s.jpg

 今年は、花梨が実一つで終わってしまった。庭一番の背高のっぽで、昨年は枝一杯に鈴なりだったのに、どうしたことだろうか。従って、茜色のジャムも駄目、冬に喉の痛む時のお湯割が楽しみな花梨酒も作れず仕舞いになった。
 菜園の辺にある2本の柿の木も、青いうちに実が落ち尽くして、僅かに1個、残っているだけ。後にも先にも1個しかないのだから、これはそのまま文字通り、木守り柿にするつもりだ。
 この「木守り柿」は、冬の季語。
 柿は全般に秋のものと思っていたけれど、これは別なのだそうな。
 霜降る頃、葉をすっかり落とした高い枝先に、ポツンと一つだけ残った様は、確かに、カランと晴れた冬空に映えて美しい冬の景物になる。
 先人が冬の季語としたのも、如何にも俳句の世界の感性が捉えたものとして納得が行く。

 廃屋の 軒の深さや 木守り柿

 冬には少々早いけれど、我が家の「木守り柿」に想いを寄せて、駄句を一句。
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2005年10月27日

極楽の余風

 例によって、乱読併読のこと。
『向田邦子の恋文』向田和子著(新潮社)
『懐かしい人たち』吉行淳之介著(講談社)
『童謡でてこい』阪田寛夫著(河出書房新社)
『太宰と安吾』壇 一雄(沖積舎)

『向田邦子の・・・』不慮の飛行機事故で亡くなった向田邦子の九つ違いの妹の手になるレクイエム。
 邦子の恋人N氏との手紙のやり取り、N氏の日記など。
 毅然とした立ち姿が目に浮かぶ向田邦子だが、秘められた大人の恋に生きる在りし日の、強くも弱い向田邦子が親族の目から描かれている。

『懐かしい・・・』短編小説の名手、座談の名手、吉行淳之介の数ある対談集のひとつ。中で、川崎長太郎との対談の再録が面白い。頑固者の長太郎さんを向うに廻して、吉行氏の舌鋒も冴え渡る。腹を探りあいながら本音で響きあうところがあって、いずれ劣らぬ大人(たいじん)の対談集。
 ここにも向田邦子が登場してくる。彼女もまた対談の名手として、山口瞳のエッセイにも度々登場していた。
 この本の「あとがき」に、「極楽の余風」(気持ちのよい涼風)という言葉を見つけて、この対談集の読後感が、一層爽やかなものとなった。
 
『童謡でてこい』は、童謡の名曲「サッちゃん」で知られる阪田寛夫の、「童謡の作詞や作曲にかかわる挿話を」まとめたもので、全48曲に及ぶ。知っている曲知らない曲、知っている曲に秘められた裏話、知らない曲の作者の苦心の様が、阪田氏の温かい眼差しで語られている。衒いのないホンワカとした雰囲気の文章は、阪田氏独特のもの。

『太宰と安吾』二人の、その死まで近くにあった壇一雄の論考集。
 この本、市立図書館から借りてきて6週に及ぶ。返却日の度毎に、継続の手続きをする。一言一句、味読させられるので、遅々として進まない。ノートを取り出したら限がない。
 小説家、壇一雄の一大傑作として挙げておこう。
 作家の資質として当然のこととは言え、「人間の分かる人」の筆は、緩まない。
 余計なことだけれど、「だざい」と打ち込んだら、いの一番に「堕罪」と変換された。タイトルの二大作家に通底する様で、考え込んでしまった。
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2005年10月23日

落文のハーレム?


落し文のハーレム20051023877d1cef-s.jpg

 団栗の実の鉢植えを終えてから、久し振りで小楢の木のご機嫌を伺いに左見右見していたら、何やら蠢く黒い集団を見つけた。蟻と蟻巻きの団体さんかと近付いてみると、どうやら落文の集会らしい。それと見ると、あちらの枝こちらの幹にと、3箇所に黒い塊が見える。
 以前、当Blogで、落文の観察記を書いたことがあるが、これ程沢山の落文を見たのは初めてなので驚いている。
「親の遺言状」を食べて孵った子供たちが、その内容について話し合いを持っているのだろうか。余り激しい動きは見られないから、時に聞く、遺産相続争いとは、縁がないらしい。
 しかし、当方は、何に限らず虫の群がり集まっているのを見るのが大の苦手で、蟻の行列を見てさえ、鳥肌が立ってしまう。
 夏には、花梨の木に毛虫が大発生してしまい、寒気と怖気に身を震わせながら、止む無く駆除剤を散布する羽目になって、往生させられたばかりなのだ。
 さて、この落文のハーレムやらコロニーやら、どうしたものだろうか。
 結論がでるまで、小楢の木に近づけなくなってしまった。
posted by vino at 14:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

白花岩紗参


白花岩シャジン20051020aea8c3fa-s.jpg

 ひさしぶりによいお天気になって、陽がまぶしい。
白花岩沙参が満開です。紫花は一足早く花期を終え、葉も降りつくして冬眠体制です。
posted by vino at 08:39| 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月16日

「は?」、「わ?」(10月21日加筆)

 今幼稚園に通っている孫が言葉を覚えたての頃、スーパーなどに連れて行くと、顔見知りでない人にも笑顔を振りまきながら大きな声で、「こんにちは!こんにちは!」と盛んに挨拶をして、手を引くこちらが苦笑させられたものだった。 
 この「こんにちは」だが、当Blogに訪問していただいている常連さんの中にも、あしあと履歴のコメントとして何人かの方が使っておられる。
 そして、「こんにちは」派と「こんにちわ」派と、表記の仕方が大体半々になっている。
 ハテ、「は」と「わ」とどちらの表記が正しい使い方なのだろうか。
 
 広辞苑を引くと、現代かなづかいと表音式かなづかいとの違いによるらしいのだが、見出し語としては表音式かなづかいである「わ」を採用している。いずれにしろ誠に紛らわしい。が、概ね「こんにちは」派はある程度年配の方が、そして「こんにちわ」派は若い世代にと別れているように思える。
(差しさわりがあったら、ゴメンナサイ。因みに当方は前者、「こんにちは」派世代に属しています。)

 「づ」と「ず」の使い方などはもっと面倒なことになっている。
「つ」や「す」が濁る場合、表音式かなづかいによると、「ず」に統一されて表記されてしまう。しかし、「つ」と発音すべき音を持つ単語が、熟語になったり、音便の如く本来の発音と異なって発音される場合に、「ず」と表記されてしまうと、語の持つ意味とは離れた使われ方になってしまって、戸惑うことが多い。

 最近、それまでは漢字で表記されていた文字が、仮名で表記されることが多くなったように思えるのだが如何なものだろうか。
 何事も、複雑、面倒を億劫がる風潮なのか、」時代の流れなのか、当方の世代にとっては、少なからず違和感を覚える。

 山に登り始めた当初、登山道で会う人毎に、「こんにちはーっ、こんにちはーっ」と挨拶を交し合ったものだが、最近では滅多にこちらから声を掛けることはしなくなった。だいいいち団体客に会ったりしたら、向うさんは2,30人でこちらは精々2人だったりすると、疲れている時などは、正直言って、鬱陶しくなってしまうのだ。
 しかし世の中不思議なもので、初見同士、赤の他人でも波長の合う人がいるもので、何となくお互いに顔を見合わせて、心からの挨拶を交し合う人がいる。そんな人に出会うと、心が和んで、疲れも癒される。ほんの一時なりとも、楽しいことを語り合えると、楽しさ、嬉しさが倍増する。
そんなお一人が、浜松市にお住まいのHさん。2年前の秋、日光白根山に登ったときのことだった。
 胸突き八丁のガレ場を登りきって、岩の間を這い蹲るようにして頂上へ辿り着いた。
 ガスの晴れ間の眺望を楽しんで不図後を振り返ると、チロリアンハットを小粋に被った初老の紳士が微笑んでいる。それがHさんだった。その時、当方は、山の神様と頑張った自分と、へたばって岩に蹲っている家人のために、乾杯をしようと、携えてきたウィスキーのケットボトルを手にしていて、小さなキャップで今まさに声を挙げて口にするところだった。一杯、二杯とたてつずけに口にして、もう一度Hさんを見ると、尖った喉仏がごくりと上下している。思わず、一杯如何ですか?と声を掛けると、Hさんは嬉しそうに近寄ってきて、では遠慮なく、と手を差し出した。スコーンと喉に放り込むような、これぞウィスキーの飲み方、アメリカ映画のなかの男連中がやるように一気に飲み込んだ。
「旨いっ!恐れ入ります、もう一杯いただけましょうか」
 悪びれずに心から喜ぶHさんに、山男の心意気、いや中年男の男らしい色気を感じて、こちらも嬉しくなってしまった。
 乾杯の後、お互いの無事を祈って別れた。
 以来、山行のたびに葉書を頂くが、元気一杯で楽しんでおられるようだ。
 
 紅葉の季節、どんな出会いと「こんにちは」が待っていてくれるのか、トレッキングの計画にも心が弾む。

  
posted by vino at 19:18| 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月15日

「トトロの森」


トトロの森.jpg 

団栗の実が色付いてきた。プックリと充実した立派な団栗で、艶々と陽に輝いて嬉しそうに見える。
 嬉しいのはこちらの心持だけれど、ハテ、どうしたものかと思い悩む。
 折角の団栗だから、落ちるに任せて朽ちさせるのも惜しい気がする。かといって、既に5本の小楢と1本の椚を植えているので、これ以上、実生で増やすわけにも行かない。
 こんな時、狭い庭が恨めしい。
 林とまでは望まないけれども、庭に雑木を並べ植えて、小径を通して、などと思ってもなかなか意のままにならない。
 さて団栗のこと。そのまま捨て置いて、やがて萎びて行くのを手をつかねて見ているのも、どうもなぁ、などと逡巡している時に、毎日新聞家庭欄のガーデニングコーナーに、格好の記事を見つけた。
「ドングリをまく」
 園芸研究家、山田幸子さんの解説で、団栗の鉢植えの作り方が紹介されている。
 これだこれだ、渡りに船だと、胸躍らせて読む。
「目標は大きく、トトロの森です。」とある。
 早速、鉢と腐葉土、それに培養土を用意して、ワクワクしながら作業する。
 最初、均一に並べたが大人しすぎて面白くない。小さいながらも、木立になった情景を思い浮かべ、トトロの寝床はここあそこ、などと考えながら、何度も並べ直す。これが楽しい。
 結局、写真のようにに落ち着いた。
 たっぷり水を掛けて終了。
 芽が出るのは来春のこと。
「すっくと幼い茎を伸ばし、緑の葉を広げるのは5月ごろ。その姿はちょっとした感動です。」と山田さん。
 アー、待ち遠しいなあ。五月ちゃんとメイちゃんみたいに、夢の中でトトロとダンスをしながら、森がムクムクと出来て行くのを見られれば一番なのになぁ、などと取り留めのないことを考えたりしている。
※播種した当時の写真が上手くアップできませんでした。代わりに、'09.6.12現在の様子をご覧下さい。立派に成長しています。樹高、およそ20pほどです。
posted by vino at 18:09| 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月14日

苔 庭

 
苔庭.JPG

夏には、辛夷や山法師の梢からの木漏れ陽がチロチロと苔庭に戯れていたが、今の季節、陽射しが随分南に傾いて、枝葉の下を突き抜けるように、直接射し込んできて、苔を明るく照らし出している。
(初めてのフォトデビューです。これから少しずつ挑戦したいと思います。)
posted by vino at 10:39| 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月08日

ギター教室 第11日目

 10月6日
 第9、10日目と、9月のギター教室は二回とも休んでしまった。
 第9日目は、情けない話だが、出掛ける前に食べた夕食で、秋刀魚の骨が喉に刺さってしまって気になって仕方がないので、急遽、休むことにした。
 まさか、教室の担当者に「秋刀魚の骨が喉に刺さったので休みます。」とも言えないので、急用が出来た旨伝言を頼んだ。ところが、伝言を頼んで受話器を置いた途端、件の骨がスーッと取れて、痛みも違和感も消えてしまった。迷ったが、結局、お休み。
 第10日目は、四日市の長女のところに出掛けてしまったので、心此処にあらず、すっかり忘れてしまって、お休み。欠席の連絡もしないでしまった。
 さて、第11日目。久し振りの教室に出てみて驚いた。練習仲間が、伴奏付きで演奏しているのだ。
 それまでは、i、mのアポヤンドとアライレ、それにpのアライレと、別々に練習していたのに、i、mでメロディを、pでは伴奏を弾いているではないか!!
 これはシタリ、遅れをとったか、と焦る気持ちを抑えて、仲間と同じ練習曲に挑んだが、まるでバラバラ。i、m、pを意識し過ぎて、隣の弦を同時に弾いてしまったりで散々。
 おまけに、左手は、今までの人差し指、中指、薬指に加えて、何と小指まで使うことになっている。
講師「二日の休みは大きいでしょう?これからは増々差がつきますよ。練習あるのみ。継続練習の大切さがお分かりになったと思います。」
(誠に、仰せの通りでございます。ト・ホ・ホ。)
 2時間の講習のうち、半分の1時間近くは自習となるので、楽譜を睨んで必死にオタマジャクシを追っかける。
 と!?ヤヤヤッ!イイねイイね。
 pの弾く低音部が、メロディと心地よいハーモニーを奏で始めたではないか。
 ウーン、ギターを弾いている、と言う気分が大分出て来たゾ。
 本日のお浚い曲、「みなと」、「さよなら」、「おはなし」そして「かっこう」。
 ページを繰ってみると、テキストの残りもあと僅かだ。
講師「来年2月の市民音楽祭には、全員に出場してもらいます。今候補に挙げている曲は、『冬のソナタ』、『花』、『涙そうそう』です。今から編曲するのが大変、皆さんのパートもたっぷり作りますから、精々頑張ってください」
生徒「(唖然として、声なし)」
posted by vino at 17:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月06日

交差する時間 − 地図を失くして

 君よ、大いなる君よ
 此処が何処なのか
 教えてくれないか。
 
 ずっと歩いて
 ずっと歩いて
 来たけれど。

 当ても無くとは
 言えないけれど。

 見覚えのある人の行き交う
 街角もあった。
 聞き覚えのある声の聞こえる
 家々もあった。
 
 なのに確たる自信が無い。
 何処にいるのか
 どの位歩き続けたのか。

 何処と言って
 何の何辺になっているのか。

 後背に広がる景色からは
 色が失せてしまった。
 茫漠とした霞の中にあるばかり。

 然と言って
 前に見える景色には
 未だ色が生まれていない。
 混沌とした霞の中にあるばかり。

 君よ、大いなる君よ
 此処が何処なのか
 教えてくれないか。

 ずっと歩いて
 ずっと歩いて
 行くのだろうか。

 当ても無くとは
 言えないけれど。
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2005年10月03日

小さな秋

 マルバノキの紅葉が早い。深紅に色付いた葉が目立つが、中に、橙、黄色とあり、緑と合せて4色になる。
 樹木図鑑を見ると、濃いブルーに色付く葉もあって、5色を超える紅葉が楽しめるらしいが、我が家のものは、深紅が更に濃くはなってもブルーまでにはならない。ブルー色の紅葉が見たいばかりに庭に植えたのだけれど、土壌の加減なのだろうか。
 霜の降りる時季になると、暗紅紫色の花が2個ずつ、背中合わせに咲く。細い5弁の花弁で、葉柄の色に似ているので、うっかりすると開花に気付かないでいることもある。
 
 色よい落ち葉を5、6枚拾い集めて、仙丈庵西側の硝子戸に張り付けた。優しいハート型をした葉が、ステンドグラスをはめ込んだように、西日を受けて鮮やかな深紅色に燃えている。
 中に、虫に喰われて覗き穴の出来ているものがあったので、早速覗いて見ると、西の山の端に一機、飛行機雲を引いたジェット機が、機体を煌かせながら消えて行った。
 
 去年の秋、庭に置くテーブルの丸太椅子や鉢物の台にと残していた椚の丸太を6本、ついに、割って薪にした。シーズンを前にして、急に惜しくなってしまったのだ。秋から今年の春に掛けて、5、6本を一束として4、50束は有った一山の薪を綺麗に燃やしてしまった。
 直径40a、長さ50a程の椚の丸太を、先ず四つ割りにする。太過ぎるものは、更に二つに割る。
 風雨に曝されて色変わりした表面とは違って、まっさらな椚の木目が現れる。この瞬間が何とも感動的で、陽に眩しく輝く真新しい薪に、イヨッ、などと声を掛けたりする。
 太いの細いのを選り分けながら、井桁に組んで積み重ね、天日干しにする。
 庭に並んだ薪の山を見ると、我知らず豊かな気分になってくる。
 薪ストーブの煙突掃除は疾うに終えているので、あとは季節の到来を待つばかり。
 それにしても、もう10月だというのに、昨日の最高気温31度。今日も風こそ涼しいけれど、日向の気温が29度近い。
 ヤレヤレ。
posted by vino at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月02日

緑茶を焚く

 仙丈庵の一夜。 
 以前、常滑で買った茶香炉に火を入れた。
 縦横9a、高さ10aの角型で、三角錐の足が少し末広がりに4本。焚口の向正面は、桔梗の花が4輪、しなやかに揺れる草丈とともに透かし彫りの意匠。左右の側面には、縦に3個ずつ、径9_の風穴が開けられている。肌は釉薬はなく柚子肌で、鉄分を含んだ砂粒が散らばり、濃淡の泥色をした至極あっさりとしたもの。天辺には、径7aの炉口が切られ、本体と同じ材質の小皿が乗っている。当たり前と言えばその通りだが、この炉口が、皿の納まりの良いようにその縁を斜めにきちんと加工されている。小さなところにも、陶工の志が見えて嬉しくなる。
 その皿に、二つまみ程緑茶を乗せる。柄のついた火炉にキャンドルを入れて火をつけ、焚口からそっと差し入れる。
 程なく、芳ばしい茶の香りが部屋中に漂い始める。
 照明を落とすと、キャンドルの小さな火影に照らし出されて、透かし彫りの桔梗が、壁に揺れる。壁に掛けられた一輪挿しの桔梗の花も揺れている。花弁の濃紫が、闇に浮かんでは消える。
 形の違う、和服の紗合せに倣った趣向を楽しむ。

 貧乏徳利の微温燗が、少し冷めてきたようだ。
posted by vino at 09:55| 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする