2006年08月25日

「敦--山月記・名人伝--」再演

 中島敦の短編小説2編を題材にした舞台が再演される、とのことで、早速チケットを手配してもらった。 
 狂言師の野村萬斎構成・演出による「敦--山月記・名人伝--」。
 一年ぶりの再演だそうだが、前回は見逃してしまった。能楽囃子方の亀井広忠が大鼓を生演奏するというのも、楽しみの一つだ。 
 
 以下、読売新聞のコラムから拾い読みする。
---現代劇に謡や囃子の要素を取り入れたユニークな構成で、亀井の大鼓と藤原道山の尺八が大きな役割を果たした。
---亀井が目指したのは、効果音にとどまらない「役者としての音楽」だった。「能でも、時には囃子がせりふをかき消すような大音量で場面を作ることがある。和楽器の不透明で抽象的な音でオブラートをかけ、お客さんに解釈を問いただすような舞台にしたかった。

 伝統芸能に生きるものにとって、新しい試みは勇気の要ることであろう。
 しかし、先人もまた試行錯誤を繰り返しながら「今風」を確立し、名人芸をものしたはずだ。
 中島敦の慟哭を、どのように舞台化したのか、若者の心意気を見届けたい。
 まずまずの指定席を得たので、来月13日、楽しみに世田谷パブリックシアターに行く。

posted by vino at 15:23| Comment(2) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月24日

行かなくても・・・(その2)

 8月12日
「星野道夫メモリアルプロジェクト」
 
 日本科学未来館の7階にあるホールは、客席が擂鉢状になっていて、客席の窄まった底辺に舞台がある。
 半径3bほどの半円形の舞台が客席にせり出しており、奥に6bくらいだろうか、直径の巾で伸びているだけのこじんまりとしたものだ。(寸法は、客席最上段からの目測なので、怪しい限り。)

 第2部。
 暗転して漆黒の闇。静かな場内に、「シャッ」という擦過音がしてマッチが灯され、山口智子の白い顔が浮かび上がる。拳ほどの卓上型のキャンドルに火を移す。次々と灯された7本のキャンドルの炎が、闇の底で揺らめく。
 キャンドルに囲まれるように置かれた本の頁を開き、山口智子は、静かに朗読を始める。いつか読んだことのある風景が目に浮かぶ。懐かしい星野道夫の語り口が、闇に囁かれる。
(星野道夫は、幾夜、闇の中で夜を過ごしたのだろうか。星明りに青く浮かぶ氷河や氷壁を前に立ち竦んで、何を思ったのだろうか・・・。朗読を聴きながら、幾つもの問いが次々と湧いてくる。そう言えば、星野道夫の「仕事」の行間には、常に、大いなる自然に対する敬虔な問いかけがあった。大いなるものに寄せる呟きがそのまま祈りとなり、優しい眼差しがそっと答えを示唆してくれた。)

 山口智子の乾いた無機質な声質が、時にアラスカの吹き荒ぶ烈風を呼び、時に零下50度の寒気を想起させる。
 やがて彼女は、一本のキャンドルと読み止しの本を手に、客席へと歩み入る。客席中段の通路にある手摺りの上に、コトン、とキャンドルを置くと、その灯りに溶け込むように寄り添い、本を開く。
(星野道夫が歩き出す。微笑みかけてくる。)
 不図、彼女は本を閉じて、手摺りの上にそっと置くと、場内の暗闇に語り始める。
---闇に耳を澄まし、目を凝らす。闇は無ではない。すべての物語は闇から産み落とされる。「見ている」と、見たつもりになっていると、見ようとすれば見えてくるはずの深遠な世界を見失う。
---闇にまたたく星の命。冬の闇が育む希望と命の熱。闇と光、悠久のサイクルのなかで、人や自然が互いに出会う奇跡。
---今宵、目を閉じて、闇の声に耳を澄ましてみたい。
(スウィッチ・パブリッシング刊講演パンフレットより一部引用)             (次号へ)

posted by vino at 14:08| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月21日

行かなくても・・・(その1)

 8月12日
「星野道夫メモリアルプロジェクト」に行ってきた。

「行かなければ良かった」ではなく、「行って良かった」でもなく、「行かなくても良かった」というのが率直な感想だった。
 だから今、宙ぶらりんな状態にいる。と言うよりも、あの日以来、「星野的」なこととは何なのかを考え続けている。

 最初に、瑣末事を書く。
 当方のチケットは「追加席」となっていて、整理番号も収容人数の末尾に近かったから、番号順に案内されて会場に入ったときには、すでに大方の席は埋まっていて、一列一体、グループや二人連れの間に、ポツンポツンと空席がある状態だった。
 昔から「挟まれる」のは好きではない。出来れば端に座りたい。見ると、最上段の通路部に、仮設の席が設けられている。最上段、舞台下手よりの端っこに座る。
 程なく、場内が半暗転して、後ろに人の気配がする。振り向くと、作家の池澤夏樹氏と女優の山口智子が連れ立って、当方の席の左手すぐのゴンドラ席に着く。こんなことで胸が騒ぐのは、当方のミーハー精神がまだまだ健全な証拠なのだろう。

 さて・・・
 池澤氏の講演は、至ってシンプルなもの。静かな語り口で、星野氏との出会い、思い出を語る。内容に取り立てて目新しいものはなく、あちらこちらに書いた解説などと大同小異。
---この十年を振り返ってみると、星野のメッセージがこんなにも広く、多くの人々に伝わり広まったことに驚き、思いを新たにしている
---星野が文章にし、写真に撮り続けた「生命のやり取り」(ひとつの死が他の動物の生を維持し、植物に及ぶまでの生態系を動かしている厳然とした自然の在り様)を思い、星野の死を悼む事を止めた。勿論彼の死はショックだったが、充実した彼の人生を思えば、徒に嘆き悲しむことは却って彼の存在感を窮屈なものにすると思うようになった・・・。
(次号へ)
posted by vino at 09:54| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月09日

星野道夫メモリアルプロジェクト

 イヴェントが開かれるのを新聞で見て、すぐに申し込んだけれど、その時はすでに満員御礼。キャンセル待ちか、調整中の追加席予約で入場整理券が取れるかどうか連絡待ちで気を揉んでいたが、今日その追加席のチケットを手にすることが出来た。
 
 8月12日(土)P.M.7:00〜
 於:日本科学未来館 みらいCANホール
---星野道夫がカムチャツカで亡くなって今年で十年になります。彼の残したアラスカの写真や文章は時を越えて、今でも私たちに感動を与えてくれます。(略)
 悠久の自然、そしてそこで暮らす動物と人間たち、彼の生涯を貫いたテーマを改めて考え、アラスカと日本を架け、意志を繋ぐために星野道夫のメモリアルとして。(講演パンフレットより)

 「新交通ゆりかもめ」のアクセスを検索していて驚いた。当日は「東京大華火大会」が行われるために、交通規制が行われる由。人気スポットである「お台場」を控えているので、大変な人出が予想され、各駅では入場制限が行われるらしい。往きはともかく、帰りは上野まで出て、常磐線下りの最終特急に乗らなければならない。どうなることやら。 
 
 12日は、作家の池澤夏樹氏の講演と、女優の山口智子の作品朗読が予定されている。どんな星野ワールドが展開されるのか、今から待ち遠しい。
 池澤氏は、星野氏の遺作の解説で熱い思いを語っていたのを思い出す。それは、解説の域を超えた、オマージュでありレクイエムであり、立派な一つの作品となっていた。今、それを読み返そうと思って書棚を探したが、どうしても見つからない。でも考えてみれば、なまじな予備知識など、却って邪魔になるかも知れない。
 星野氏と深い交流を持ち、今回の発起人の一人でもあるクリンギット・インディアンのボブ・サム氏のストーリーテリングも楽しみだ。
 いざ、憧れの星野ワールドへ・・・。

posted by vino at 18:40| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月04日

石と遊ぶ

孫軍団と、近くの久慈川の河原へ、石の収集に行く。
 夏休みの工作の宿題に、石にアクリル絵の具でペインティングをして、魚や動物などを作ることにした。
 広い河原で、思い思いの石を拾ってきた。
小2の女の子「はじめは、どんな石を拾ったらいいか分からなかった。でも、色を付けてみると、石が話しかけてくるようで楽しくなった。今度行ったら、お話しながら集めたいな」
小1の男の子(双子)「石って重いね。僕の拳骨ぐらいでもズッシーンてする。石の魚だけど、泳げるみたいだ」
幼稚園年長さんの男の子「重いね。何を作ろうかな。だって、石が黙ってるもん」
幼稚園年少さんの男の子「ヘ・ン・シーンッ!!」
(彼は、ウルトラマンの大のファン)
一同「ハ・ハ・ハ・ハ。おもしろーい!!」
 
石と遊ぶ-s.jpg

 完成品、製作中、素材のまま。
 皆、石が実に雄弁なのを実感してくれて、嬉しい。
 ご高覧下さい。(写真の挿入が上手く行きません。ご勘弁ください。)
posted by vino at 13:12| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

未必の故意

 また一人、幼い子が犠牲となってしまった。
 楽しいはずのプール遊びで、しかも母親の目の前で起きた事故は、報道で知る限り、とても「事故」とは思えない。「未必の故意」と断じたいほど、無念さを覚える。数年前に起きた同じような事故が、貴重な教訓となって生かされていない。事に当たる担当者の「当事者意識」がまるで欠落している。そして関係者が揃って頭を下げる。
 ご家族の悲しみ、悔しさは如何許りかと暗澹たる気持ちに襲われる。
 行政は、委託すれば事足れりとし、我関せずの体たらく。それにしても、安全管理、事故防止に対する意識がどうしてこうも寒々としたものになってしまったのだろうか。
 徹底した検証と、今後に生かす方策の構築をしなければ、犠牲者の霊は浮かばれない。

 今日の朝刊で、吉村昭氏の訃報を知る。
 氏の作品の、長年の愛読者を自負していたのに、氏の病状は知らなかった。
 家族以外には伏せていたと言うから、一読者の身で知る由もないことながら、残念でならない。
 徹底した資料収集と関係者への取材、そして可能な限り全力を尽くす現地調査が、氏の作家としての姿勢であり矜持でもあった。歴史小説、戦史小説にその名を残す作品が多いのも、そういった氏の作家魂の結晶だと言える。
 しかし、当方は、そういった世評の高い、分厚で重厚な作品群は措いて、氏のエッセイや短編集を書架に収め、愛読している。
 吉村氏の文体は、世に言う流麗な名文とは質を異にする。どちらかと言えば、ゴツゴツした生硬な、生真面目な、そして直截な物言いや描写が多い。それでいて、行間からは、思い佇む人への柔らかい眼差しと、鋭い洞察力が滲み出る、実に味わい深い文章となっている。多くの人々の死を目の当たりにし、死の向うに見え隠れする生き様を、確かな筆致で描く小品にこそ、氏の死生観がよく現れていると思うがどうだろうか。
 当方はそれを、「東京人の明け透けな含羞」と名付けて愛読しているものだ。

---兄の死に寄せて、自らの死生観を吐露した私小説「死顔」を書き上げたばかりだった。(読売朝刊)

 ご冥福をお祈りします。
 
posted by vino at 12:58| Comment(2) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする