2007年04月29日

花なるべからず


瓜肌楓の花.JPG



 三年ほど前、裏の里山から山採りしてきた瓜膚楓に、花が咲いている。
 まず、花の形に見入ってしまったけれど、瓜膚楓にも花が咲くことに、驚いている。
 繁った雑木林の中で、僅かな木漏れ陽を頼りに、ヒョロリ、と立っていた姿に魅かれて、同行を頼んだ山主に掘り起こしてもらったもの。
 移植した当初は、か細い木立振りを心配したけれど、なんとか根付いて三年あまり。今年は葉柄が例年になく大きくなったと思っていたら、花を見ることが出来た。
 この木の葉は味がいいのだろうか、小さな蓑虫が各枝に数匹ずつ鈴なりにぶら下がった年もあったけれど、今のところ、蓑虫の姿はない。
 樹勢と葉の味加減に関係があるのだろうか。
 それにしても地味な花で、薄く紅を引いて芽吹く、幼芽かと見紛う。

 秘すれば花、秘せねば花なるべからず。

 西陽を受けて、母屋の壁面に影を映す花を見ていると、世阿弥の『風姿花伝』にある言葉を思い出した。なまじ若い頃に読んで、生半可に理解した心算が、花ならぬ花を見て、心に浮かんだらしい。
 早速に、再読をと、仙丈庵の書棚を見渡したけれど、「秘すれば花」の主も、姿を秘して、見当たらない。
posted by vino at 17:39| Comment(0) | 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月22日

「時間」のあとさき U

 わたしは、感傷を言いたいのではありません。それは、もっと、ずっと、おぞましいほどに素気ないものだろうと思うだけです。
「時間」が、己の為した行為の中に痕跡を残すとは、どうしても思えません。そんな、「時間」との蜜月が、人間に許されているとは思えないからです。
 人は、常に、「時間」に置いてきぼりを喰わされる。カウント・ダウンのように、掌中にある、共にある、という錯覚に背中を押されて、ノンシャラントに、もっと言えば、錯覚の渦中を歩くうちに、突然、行きも戻りも出来ない、絶対の断崖に、つまり「生」の終点である「死」に直面させられます。
 端的に言えば、産声でスウィッチ・オンされて以来、幾許かの歳月を経てのち、末期の息によって切られるスウィッチによって抽象、捨象されるものをのみ、「時間」と見るのであれば事は済む、ということではないはずです。
 人の一生に与えられた「時間」の長短を言うのではありません。「宇宙」の前では、それらの長い短いはあまり意味がないほど微々たるものだからです。
 考えるべきは、何故、このようにあるか、ということです。
 何故、己の屍の上を、縹渺と矢の如く、「時間」が渉って行くのか、ということです。

 平らな道を行く。
 振り返れば凸凹な道。

 凸凹な道を行く。
 振り返れば平らかな道。

 陰影(かげ)を踏んで行く。
 振り返れば
 何もない道。
posted by vino at 16:37| Comment(4) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月20日

「時間」のあとさき

 わたしが感じる「時間」の不思議の中に、コレをするには長過ぎるけれどアレをするには短過ぎる、あるいはこの逆の、短長に迷うことがある。
 「時間」の途上(そんなものが在るとしての話だけれど)で戸惑い、途方に暮れたりする。この場合、「時間」は、当然、ある一定の長さで認識されているわけで、その対置に、為そうとする行動がある。
 急ぎ過ぎるのか、逡巡が過ぎるのか、あるいはそのどちらでもあったりする。「時間」に虚を衝かれた思いで、踏鞴を踏む。
 変な言い方になるけれど、「時間」の前ではにかんだり、その後ろで唇を噛んだりする。
 
 世に、カウントダウンが、イベントやセレモニーの目玉として持て囃されるのを見ると、それに興じている人たちの神経はどうなっているのだろう、と思う。
 失われ行く「時間」を、拍手と嬌声で見送るあの騒ぎぶりは、だから、何やら悪魔に魅入られた魂の喪失者たちの絶叫として、聞く。生きていることに目を瞑り、死を手招く絶望の狂宴と見てしまう。
 皆でいることに安住出来る心の在り様に、驚く。

 一字一句、一語一言の中にも、掛け替えのない、取り返しの利かない「時間」が詰まっている。否、いた、はずである。
 しかし、文字や言葉は、このように記録(時には記憶)されるのに、「時間」は事も無げに、行ってしまう。
 あとにもさきにも、痕跡さえ残さずに、だ。
posted by vino at 11:01| Comment(4) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月19日

ビル・エヴァンスを聴く

ユニバーサルミュージック版
“Exploraitions”
“Waltz for Debby”
“SUNDAY at the VILLAGGE VANGUARD”
“PORTRAIT IN JAZZ”

 このところ、前から気になっていた、ビル・エヴァンスを聴いている。ピアノとベース、それにドラムスのエヴァンストリオ。こんなジャズがあったのかと驚く。
 静かで確かな、大人の語り口で「問わず語り」を聴くように、耳に浸む、心に響く。
 ピアノは、勿論、メロディを奏でるけれど、ベースもドラムスも分を弁えて、実に多彩。
 ビル・エヴァンスが、ジャズ界でどんな位置を占め、どんな足跡を残したのかは知らない。そんな事どもは、音楽評論家やマニアに任せておく。目の前に聴く、音盤があれば済むことだ。けれど、こんなジャズメンに出会えてよかった、と、何故かホッとする。これをこそ、邂逅と言えばよいのだろうか。
 ホーンやサックスの響き渡る熱いジャズも嫌いではないけれど、エヴァンスを聴くまでは、たった三つの音源が、こんなに広く、深く、「語る」、「触れる」ものだとは知らずにいた。
 ベースのスコット・ラファルロ、ドラムスのポール・モティアンを得てトリオを結成し、エヴァンスの言う‘同時的即興’(simultaneous improvisaition)を目指して結実した名演奏に感謝したい。
posted by vino at 16:39| Comment(4) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月11日

退院しました

 先月13日に緊急入院しました家人が、今日、無事退院いたしました。
 ご心配頂いた皆様方に、改めて御礼申し上げます。
 あまり順調過ぎて怖い位ですが、身内にとっては、生還することができた、というのが実感です。とにかく、名医に出会えたこと、本人の生命力、ご心配頂いた廻りの皆様方に、唯々感謝あるのみです。
 当ブログも、近々復刊させていただきますので、よろしくお付き合い下さい。
 ありがとうございます!!
posted by vino at 13:48| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする