2007年05月27日

「薬師如来坐像」一般公開

  当地(常陸太田市)にある、数少ない指定文化財のうち、国指定重要文化財「木造薬師如来坐像」、県指定文化財「木造仁王像」の修復が為ったのを機に、一般公開が行われた。
  いずれも、市内下利員(しもとしかず)町にある西光寺に祀られている仏像である。
  西光寺は、真言宗豊山派の寺院であったが、大正12年に火災にあい、仁王門を残して焼失。幸い薬師如来坐像は運び出されて無事であったが、光背の一部が焼損してしまい、仁王像も手首が焼損したと言われている。
 従って、薬師如来様は、その後に建てられた、鉄筋コンクリート造りの収蔵庫に安置されており、普段はそのお姿を拝むことは出来ない。秘仏なら致方がないとしても、その優しいお姿を日々目の当たりに出来ないのは、本殿の再建が侭為らないことにもまして、地元の方々にはさぞ残念なことだろうと思う。
 以下、会場でいただいたパンフレットから抜書きしてご紹介しましょう。

薬師如来.JPG
「木造薬師如来坐像」
:明治44年8月29日、国重要文化財指定。像高は143.7p(台座を含めると290.7p)で九重の蓮華座上に座し、背中には飛天のつく光背を持っている。
  平安時代後期の作で、京都府宇治市の平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像、京都市伏見区の日野薬師の阿弥陀如来像と同作であるとされ、定朝様式の仏像として、県内では貴重な存在である。
  本来は漆箔で布が貼られていたが、後世に赤漆(弁柄漆)を施したため、顔面を中心にその痕跡が残っている。
  今回の修復は、漆箔が浮き上がり、反りがみられたため、周辺を安定させた後にアクリル樹脂などを充填して接着し、剥落止めの措置を講じた。
  担当は、奈良にある(財)美術院国宝修理所で、平成17・18年度の2ヶ年で行った。
修復の方針
@欠失部は新に補わない。
A新たな彩色は行わない。
B赤漆は下層の本来の漆層を傷める可能性があるため、はがさずに固定する。 
C光背の飛天は本来の位置に付け替える。

DSC03192.JPG
「木造仁王像」
:昭和46年1月28日、茨城県文化財指定。
 阿形像は像高236.0p、重さ230s、吽形像は像高231.2p、重さ246sである。阿形像は欅材、吽形像は桂材で何れも一木造り。室町時代後期の作とされている。
  今回の修復は、はじめにすべて解体し、表面をクリーニング後、乾漆の剥落防止措置を行った。その後接合組み立てを行い、必要に応じて接合部は新たな部材で補うとともに、新たな台座(欅材)を製作し、その上に設置した。
 吽形像の胎内から、前回の修理の際(享保2年・1717年)納めたと思われる銘板3点と般若心経の経巻1点が確認された。(以下略)
 担当は、東北芸術工科大学文化財保存修復研究センターで、平成17・18年度の2ヶ年で行った。
修復の方針
@欠失部は新に補わない。
A新たな彩色は行わない。
Bすべて解体し、後補の補強金具はすべて除去する。
C台座は像を支えることができる充分なものに作り替える。

DSC03191.JPG  お寺本体が焼失してしまったことは、かえすがえすも残念なことだけれど、こうして立派な仏像三体が後世に受け継がれるのは、何と言っても喜ばしいことだ。
  本尊の薬師如来様も立派で清々しいお姿だったし、仁王門に立つ、阿形・吽形像も、漲る力強さ、細部に至るまでの彫刻の確かさは、素人目にもとても田舎作りとは言えず、作者名は分からずとも、当方には充分すぎるくらいありがたく拝観できて、幸せな気分で帰ってきた。
posted by vino at 13:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

手 紙

「わたしだって・・・美容院へ行ったわ。着物だって・・・、着物が駄目なら帯だって・・・指輪だってしているもの・・・。自慢できるほどのものではないかも・・・。でも、選りによって歯茎だなんてあんまりだわ。わたし、歯並びだったら褒められたことはあるけれど・・・、歯茎が綺麗だなんて・・・。」恨めし気にそういうと、女は声を押し殺して泣き出した。
 気配を察したのか、数人のヘルプのホステスが慌てて飛んできた。他の客に気取られないように、泣いている女を両側から囲んだ。
 わたしとの間に割り込んだ一人が、「悪い人ね。」と囁いた。
 香水が強く匂った。
 
       ★

 
DSC03242.JPG 6月、額紫陽花の咲く頃になると、一通の手紙を書く。ラヴレターと言っても良い内容だけれど、それと悟られないように、婉曲に紛らかす。
 6月×日、女の誕生日に、その手紙を添えて、Oさんは額紫陽花のアレンジメントを届ける。
 代書を頼まれて、何年になるだろうか。
 胸ときめく青春時代から、他人のために何通も書いたけれど、自分のためにラヴレターを書いたことはない。我ながら、アレンジャーの味気なさに臍を噛む思いがないではないが、己の性情は侭為らぬものだ。

       ★

   花に、その生涯を問えば、「わたしは当歳
  で全てを生き切る」と答えるだろうか。
   何と儚くも空しいことか。
   しかし、儚くそして空しくなければ、花の
  あれほど美しかろうはずもない。
   花の妖しさは、その空しく儚い生涯を潔く
  生きる健気さからくるに違いないと得心が行
  けば、花に微笑む優しさも生まれる。そして、
  その美しさの中に、猛々しい生の営みのある
  のを見逃さなければ、花の花として在る在り
  様に寄り添って生きられる。

       ★

 ある日、Oさんと二人、酔った勢いで、その女に「花は、言ってみれば、所詮、性器に過ぎない。『花の美しさというものは無い。美しい花があるだけだ。』花を愛でるのは、×××の代償行為に過ぎない。」と言って、思い切り横びんたを食らったことがある。
 Oさんが素早く首を竦めたために、まともに平手がこちらに届いてしまったのだが。

 以来、額紫陽花を見ると、ろうたけたその女を思い出す。


posted by vino at 13:08| Comment(2) | 掌編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月23日

交差する時間 - アナタへ

その時も彼の時も
アナタが居てくれてよかったと思う

その時に彼の時に
ホントに幸せを感じたものだ

喜びを伴にして悲しみを感じ合い
よく喧嘩をしたものだ
よく笑い合ったものだ
可笑しい時は腹の底から
声を出しては笑い合った
喧嘩の時は腹の底から
声を出しては語り合った

言葉は尽きず
言葉は足りず
思いは満ちて
思いは去りて

その時も彼の時も
アナタが居てくれて 
ホントに良かったと思う
posted by vino at 17:21| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月22日

庭に咲く花


DSC03150.JPG 一つだけ咲いた石楠花。もう既に、花弁は散りつくしてしまった。



DSC03151.JPG もう一つの石楠花の蕾。苔庭の手入れの時に、誤って落としてしまったもの。可哀想なので、小さな花器に挿しておいたら、1週間ほどで開花。

DSC03171.JPG 今年は早目に、葉や蕾を消毒したお陰で、虫の食害がなく、綺麗に咲きそろっている。白花の中でも一番好きな、藪手鞠。

DSC03178.JPG ふんわり、蕊が可憐な、下野。若葉が、朝陽を浴びて黄金色に輝く。



山法師.JPG 
 
 今朝(23日)、小庭を一回りしていて、も一つ思い出した、山法師。今年は枝一杯に咲いています。



posted by vino at 17:22| Comment(0) | 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月18日

交差する時間 - びり

うれしかったよ
うしろをふりむいたら だれもいない
いちばん
びりって いちばん

べつに
いちばんになりたいわけじゃないけれど
びりでいるって
ゆうきのいることなんだ
かなしいことなんだ
くやしいことなんだ

べつに
いちばんになりたいわけじゃないけれど
びりでいるって
つかれることなんだ
わらえることなんだ
くるしいことなんだ

おどろいてしまったよ
うしろをふりむいたら みんないる
みんないる みんないる

いっしゅうおくれで
みんなに おいつかれそう
びりって やっぱり びり

でもさ
いちばんになりたいわけじゃないけれど
びりでいるって
ふんばっていることなんだ
まもっていることなんだ
くしんがいることなんだ

なにかを
ささえていることなんだ
posted by vino at 17:21| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月17日

廃園のその後





廃園その2 001.jpg 以前、、廃園のとなり梨の花で触れた果樹園を訪れてみた。
 ぶどう園に、一本だけ残っていた若木も伐られていて、残された幹が鎌首をもたげていた。近づいてみると驚いたことに、その切り口からは、まるで壊れた水道の蛇口を思わせるように、タラタラタラタラ、水が滴り落ちている。幹の内部に、循環ポンプでも組み込まれているのでは、と総毛立つ思いに立ち尽くしてしまった。
 ぶどうの木の生命力を言うべきか、彼の慟哭の涙を言うべきか、言葉もない。
 水の滴りが止まり立ち枯れた時が、つまり彼の死を意味する。
 
DSC03161.JPG 一方、梨園も、芽吹きの前に枝が払われ、幹が切り倒され、切り株を残すのみ。
 替わって、一面に、春紫苑が咲いている。


posted by vino at 13:15| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月16日

宇宙に浮かぶ妖精


DSC03159.JPG 昨夜は散々だった。
 7時過ぎ、夕食後に友人からのメールをチェック、と再三接続を試みたけれど、何回試みてもエラーの表示。何事ならんと、KDDI、NTT両社のサービス係に電話をするも、これがまた、繋がらない。
 お決まりの機械音による案内メッセージが繰り返されるばかり。呆れて掛けなおしてみると、今度はどちらも話中音。30分ほどであきらめ、仙丈庵の灯りを落として母屋へ、と行きかけたその時・・・。

 宇宙に浮かぶ妖精を見た。(証拠写真:クリックしてください。)
 左方向に一際輝くのは、太陽。漆黒の宇宙に瞬く星屑の中に、薄緑色の衣を纏った妖精が浮かんでいる。

 とは真っ赤なウソ、作り話です。左方の輝きは、カメラのフラッシュ光がガラスに反射したもの。星屑に見えるのは、その光に、我が仙丈庵の窓ガラスの埃や汚れが浮き上がったもの。
 ウスバカゲロウでしょうか。美しさに見惚れて、先程の鬱憤などケロリです。
 何時だったか、東北の湯宿の露天風呂で、ランプの灯りに誘われて集まったカゲロウたちが、湯面から立ち上る湯煙の中、乱舞していたのを思い出す。
 やがて彼らは、疲れたのか命尽きたのか、一様に湯に落ちて、そのまま湯の動きに任せてユラユラ揺れていました。
 一緒に見惚れていた女(ひと)の白い肌に、まとわり付いたりして・・・。
posted by vino at 14:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月15日

年 輪


DSC03154.JPG 起き抜けに窓を開けると、小庭の木々が枝葉を風に揺らしながら、朝の挨拶をしてくる。
 朝陽を浴びて、頗る機嫌で出迎えてくれるのが嬉しい。
 庭木揃って新緑一色の中で、数少ない常緑樹の木々も遅ればせながら衣替えを始めている。
 金木犀、山茶花、カルミヤそして柘植。常緑樹の庭木は好まないので、こんなもの。新芽を吹きながら、未練たらしく去年の古葉を脱ぎ捨ててゆく。
 落葉樹でありながら、芽吹きの時まで枯葉を着けていた椚も、やっと最後の一葉を落としたばかりだ。
 
 狭いながらも我が小庭で、年々枝葉を広げ、背の高さを競い合う木々の下を一回りするのが、朝の楽しみの一つになった。
「後が大変だから、庭木は余り伸ばさないでくれないかな。」と、離れて暮らす息子が言う。

 昨年末に材木商の友人が運んでくれた端材を割って孫軍団と薪作りをしていた、冬休みのある日のこと。
「ほら、10センチ位の厚みなのに、幾つあるか、年輪、数えてご覧。」
「50・・・60かな。60歳?」
「いや違うな。この木はこんなに太い木だったんだ。」と両手を広げてみせる。
「これは輸入材で米松っていうんだ。少なくみても半径50センチはあるよ。ということは?」
「・・・へぇ、250歳とか300歳とか!?」
「そうさ、君たちがいま割って薪にしたのは芯のところだから、300年前のところが初めて出てきたんだぞ。感激だろう!」
「それって違うんじゃない、木って中から太くなってゆくんでしょう?だから、芯のところが一番新しいってことじゃないの?」
「えっ!?」と絶句。そうか、木って、雪だるまが大きくなるように外側に年輪が増えてゆくんじゃないんだ。年々、木の中心部に竹の子のような新しい芯が出来て、そうだ、水面に出来る水の輪のように、中から広がってゆくんだ。外側に太らせる分には簡単だけれど、中からだと、年毎に全体を太らせなきゃならないから、木が大きくなるって大変なんだなぁ、と感心する。つい先程まで、勘違いしていたみたい。だって、切り株の年輪を数える時って、中心の方から数えるよね。だからそれが古い順だとばかり思い込んでいたことになる。
「オイッ、もう少しだ。やっつけちゃおうっ!」と、照れ隠しに気合を入れ直したっけ。
 
椚は30年も経てば一人前になる、その時は庭一番の大木になっていることだろう、などと考えながら、孫軍団を見遣る。この子たちだって、30年経てば、みんな30代、40代の男盛りだ。
 この中で、誰がこの椚を薪ストーヴにくべるのだろうか。
 揃って薪ストーヴを囲んで、昔話、思い出話をしてくれるだろうか。

追補:吉野や秋田など各地に銘木の産地がありますが、若木の内に必ず枝打ちをします。そして、その傷口をおおうように、樹皮がかぶさって年輪を重ねてゆきます。柾目材を得るためですが、これによっても分るように、年輪は、外側へ外側へと増えてゆく訳ですね。従って、上の記述は、完全な誤りですが、孫たちとの他愛のない会話として、そのまま残します。悪しからず。(2009.1)

posted by vino at 18:00| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月11日

交差する時間 - 畑

ふた月前に妻を亡くした百姓が
何植えるでもない畑に
耕耘機を動かしている

昨日も今日も
ゆっくりゆっくり耕している
土塊(つちくれ)と一緒に
自分の影も耕してゆく

隣の その隣の
先月に耕したばかりの畑に
夏草が生え揃っている
posted by vino at 11:16| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月10日

交差する時間 - 街角で

どこから来て どこへ行くのか
ひとりのおばあさんと
ひとりのおじいさんが
出会って 立ち話

おばあさんは大根を片手にして
おじいさんはビニール袋を片手にして
残った手で お互い身振り手振り

おばあさんが仰け反って大笑い
曲がった腰はそのままで
上体だけ仰向いて
歯のない口が ポッカリ

おじいさんは口を塞いでクックックッ
曲がった腰はそのままで
上体も曲がったままで
毛のない頭が ピッカリ

どこから来て どこへ行くのか
街角での立ち話
出会ったふたりが
お互い 身振り手振りで
笑い合っている

posted by vino at 14:18| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月08日

花を待つ心

新々百人一首.JPG   
 前回、ライラックの幼木を植えて、未だ今年の花が終わっていないのに来年の花が待ち遠しいと書いたけれど、心に掛かるところがあった。
「この年になると、何があってもおかしくはないからな」
 先日、家人の見舞いに来てくれた友人の言葉が、身に沁みて思い出された。そうか、それは考えておかなくてはなるまい、あと何年、花を見ることが出来るのだろう、と独り言ちれば、西行が詠ってくれる。

 わきて見む老木は花もあはれなり
      今いく度か春にあふべき(山家和歌集)

 「来る年の花」は、老年のものと言えようか。老いの身に、叉来る春を重ね、咲き競う花を待ち焦がれる。
 人は、青壮年期、花を待たない。待たずとも花の方からやって来る。いや、己自体が既にして花である。

 丸谷才一の『新々百人一首』に、花の歌題の面白い分類が出ているので、引用させていただく。

<ところで、花は初花(初ざくら)にはじまり残花ないし余花:あまりのはな(遅ざくら)に終わるのではない。それに先立って、待花(まつはな)といふ花がある。あるいは、花見は花を心待ちすることからはじまる。(中略)>

 そして、花の歌題として次の配列を見る。
  
<待花、初花、見花(みるはな)、曙花(あけぼのはな)、夕花(ゆうべのはな)、月花(つきのはな)、惜花(をしむはな)、落花(らくか)>

 以上、(この分類は、次田香澄・岩佐美代子校注『風雅和歌集』の頭注に従ふ。)と、ある。

 何と雅な言葉の数々だろうか。

<花は雪や月と並ぶ、いやそれ以上に大事な景物で、われわれの文化の勘どころだからである。>

 それらの歌題が詠み込まれた幾多の秀歌を持つ日本人は、何と幸せなことかと、折々に歌集を繙くたびに思う。
 丸谷氏は更に、「花は桜に限ったことではない、桜以外の千草万木でもただ花と言った場合は、賞玩の心が大きい。」とする山本健吉の言(『最新俳句歳時記』・「花」の項)に傾聴を促す。
 小庭に、桜の木を持たない当方が甚く感じ入った言葉でもある。そして、小庭に限らず目を転じれば、「千草万木」、待花から落花まで花の競演の季節である。
 
 待ち遠(どほ)の花を心にかけよとや
    今朝嶺(みね)こえてきさらぎの雲  正徹

 花鳥風月に行雲流水の心を以ってすれば、歌人(うたびと)ならずとも、幾許かの感興に浸ることは出来る。
 芸道を極めるにしろ鑑賞者に甘んじるにしろ、待つ心に、変わりはない。
posted by vino at 20:04| Comment(9) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月04日

ライラックを植える


DSC03143.JPG 天気もよく、家人の気分も良いようなので、久し振りに庭弄りをする。
 まず、苔庭の隅に植えたまま支柱一本に任せていた、ハツユキカズラの株分け。
 ご存知のようにこの植物、蔓の行き先を失って土に接すると、途端に根を出す。よって、どちらが根元でどちらが蔓先なのか分からない状態になってしまう。
 縦横一間ほどの蔓棚を作って、伸び放題の蔓を宥めながら仕立てた。夏を過ぎる頃には、蔓簾になって呉れるのを期待している。
 
 つぎは、去年、飛騨高山を訪れた時に手に入れた、朝顔の種を播いた。朝顔と言ったけれど、正しい名前を忘れてしまった。
 飛騨高山の商店街には、軒並み、この花が植えられていて、中には、二階家の軒先まで見事にすだれているところも見られた。古民家の褐色の壁に、スカイブルーの花が実によく映えている。
 店先に咲き競う花につられて買い物に立ち寄った商店で、実の入った種を頂戴した。昼時にも咲いていたから、朝顔ではないのかしらん。不思議なことに、花の名前を訊いた記憶がない。だから、失念したとも思えないが、魅入られた花の名前を訊ねなかったしたら、全く迂闊だったとしか言いようがない。 
 
 そして、ライラック。当方の世代では、懐メロの歌の文句にある、リラの花と言ったほうが通りがよい。
 紫ともピンクとも、要はライラック色と言えばよいのだろうか、可憐な花が一房付いた幼木を植える。
 何の花木でもそうだけれど、花時に見ると、ついその気になって買い求めてしまう。そして、決まったように、次の年の花付きの貧弱さにはがっかりするのだ。こちらの肥培管理の手抜きを棚に上げて、園芸店の係員の甘言を恨んだりする。
 とまれ、言われたように、わが小庭の中で一番に日当たりが良くて水はけの良い所を、と選んで植えた心算なので、来年の花時は、乞うご期待。
 未だ今年の花も終わっていないのに、と家人の弁。
 その家人が、好きな花の手入れをするには、もう少し時間が掛かりそうだ。
posted by vino at 17:47| Comment(6) | 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遣 形(やりかた)


DSC03141.JPG 小庭の真ん中、姫辛夷の木を囲むように、遣形(丁張り)が出来ている。
 春休み、小三の双子の孫が音頭をとって、小一と幼稚園の年中君と四人が、木の周りで何やら相談をしていた。やがて、「ヤルゾウッ!!」と、鬨の声を挙げながら仙丈庵に押しかけてきて、鼻息も荒く口々に言う。
「皆で相談して決めたんだ。あの木に、tree houseを作りたい。」
「皆で遊べるくらいの大きさだよ。」  
 小三の子が、学校の遠足で行った公園で見て、えらく気に入ったらしく、その話を聞いて鳩首凝議、全員一致で決まった、というのだ。
「おいおい、庭の真ん中だぜ。これから緑や花やで庭が一番綺麗になる季節だよ。」と当方。
「じゃ、多数決で決めよう。」と小一君。
 結果、庭のど真ん中に、方一間の遣形が出現してしまった。

 組み立てるのは、夏休み。それまでに銘々が、どんな形のハウスにしたいか、スケッチを持ち寄ることに決まった。
 何時だったか、徒長枝を払うために、家人が脚立に上って近くの枝に捕まろうとして手を伸ばした先に、枝なりに身体を絡ませたシマヘビに気付いて、危うく脚立ごと転倒しそうになった話をしたが、効き目がなかった。
「へ・び!?それって、じいじの責任ジャン。へびなんか飼って置くからだよ。」年中君が口を尖らせていた。
posted by vino at 11:02| Comment(0) | 庭には・・・ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月01日

交差する時間 - 吊り橋

 憧れだった人に会いに行ったきり
 
 あのひとは いまなお 戻ってはきません

 山の向うの さよならが

 今日も 夕焼けています 
posted by vino at 19:39| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする