2009年05月30日

STATE OF PLAY

 
 久し振りに、映画鑑賞。
‘STATE OF PLAY’(邦題「消されたヘッドライン」)
現在、各地の映画館で上映中の映画でしょうから、下手な映画評を書いてネタバレになってはいけませんので、例によって、ミーハーの言。
 
 獲物を狙うときのネコ科の猛獣は、ライオンにしてもトラにしてもヒョウにしても、何故あのように悲しげな眼差しをするのだろうか?
 他の動物の命を奪わなければ、自らを養ってゆけない宿命を嘆いているのだろうか。

 ポスターやパンフレットの表紙の、ラッセル・クロウの右目だけを、親指と人差し指で丸を描いて覗いてみてください。でしょう?そう、彼はネコ科です。
 ラストシーン近く、同僚の女性記者とささやかな祝杯を上げる時だけ、取って置きの笑顔を見せてくれます。
 うっかりして、映画の中では確信できませんでしたが、その時の酒が、アメリカのプライム・ウィスキーとして名高い、バーボン・ウィスキー、ジャック・ダニエル ブラック・ポケット200ml 40°、です、確か。
 え!?、瑣末事に過ぎるぞ、ですって!!細部まで手を抜かないのが、あちらの映画の本物度で、当方にとっては逃せない見所なのです、悪しからず。(それと、昔々、某君がバーボンならこれ、と痛飲していた銘柄なのでした。)
 ロビン・ライト・ペンも出ていました。このひと、50%幸せ、50%不幸という役どころでは、揺れる女心の奥底を演じてピカピカ光って、大好きな女優さん。

※売店で買ったパンフレットの表紙を、追記でお断りして転載させていただこうと思いましたが、(WEBサイトでの使用を含む)とあって、禁止されていました。当然ですよね。従って、残念ながら映像はありません。映画館でどうぞ。 
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2009年05月28日

交差する時間 - 左の耳で聞きながら(父のこと)

昭和が消えた日から半年近く後に父は死んだ
大正の初めに生れて昭和の戦争に行くはずが
関東大震災で得た怪我がもとで
右足が不自由になっていて置いてけぼりを食った
生涯、父はそのことを悔いていた
二つ違いの叔父が、南方の戦地で胸を病み
内地に戻って半年で死んだ
生涯、父はそのことを「俺の代わりにあいつは・・・」と何度も嘆いた
東京大空襲で隣家が爆弾の直撃を受けて
五人の住人が欠片となって消えてしまった
爆風で右の耳が傷んだ他は然したる怪我もせず生き延びた父は「奇跡だ、奇跡だ」と惚けたまま火炎の中を彷徨った

父が悪かったわけではない
時代が父の傍らを猛烈な速さで駆けて行ったのだ
父は悪びれることなくノコノコと右足を引きずって歩き、左耳で世の中を聞きながら生きた

同じ年の同じ月同じ日に美空ひばりが死んだ
祥月命日には、毎年のようにテレビで特番が組まれ
賑やかに誰かが悔やんだ
その人たちは美空ひばりの友人であることを語って誇らしげだった

同じ月の同じ日
僕は父の墓前で静かに線香を焚き手を合わせる
父の引きずった足音を偲んで

父はその左耳で美空ひばりを聞いた、のだ
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2009年05月24日

あの時の色


DSC04737.JPG 庭先にチドリソウが咲いている。株植えをしたわけではなく、落ちこぼれた種から、この時期、庭先を縁取るように生え揃って、咲く。
 辺りの緑に沁みるような青い花の色合いだからだろうか、その立ち姿からだろうか、この花を見ると、結界という言葉が思い浮かぶ。
「これに、白が混じったら、綺麗でしょうね」
 家人の言葉に、ギョッとする。
 
 真っ白なオープンカーから美しい女のひとが降り立って、「さ、お迎えに来たわ。一緒に行きましょう」とドアを開けて誘っている。緩いスカートが風に翻って、白くなったり空色になったり。

 あの時、あの車に乗っていたらどうなっていたのだろうか。
「40度の熱が3日も続いたのよ。先生は、『今夜が峠です』って恐いことを言うし。私、お母さんと抱き合って泣いたわよ」。入院40日、母と二人で、付きっ切りの看病をしてくれた姉に、退院後、聞かされた。
 二十歳の夏、虫垂炎が手遅れとなり、穿孔性腹膜炎を併発して入院、危機一髪で生還した。
 その半年後、高校時代の親友だったW君が、同じ病で急逝してしまった。 
 
 あれって、臨死体験なのでしょうか。
 以来、白と青が特別な色になっている。
 
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2009年05月23日

春の陽だまり(テキスト)7

 あとがき
(以下、『日系ブラジル移民史』参照)
 物語の中では詳しくは説明できませんでした、「平野植民地」について、少し触れてみたいと思います。
 夢を抱いて辿り着いたブラジルの現実は、とても厳しいものでした。
 金のなる木コーヒーでさえ、世界の政治情勢、経済の浮き沈み、天候に大きく左右されました。コーヒー園の収穫作業は、それまでアフリカの黒人奴隷達が、牛馬のように追い使われていた過酷な労働でした。
 日本人移民が増えるに従って、このまま、コロノ(農園労働者)でいたのでは一攫千金は愚か、その日の衣食住の目途さえ立たないという焦りが、広まってゆきました。そんな中、静岡出身の、平野運平という人が、植民地、農地の開拓を始めます。
 広大な国土を誇るブラジルは、資金さえあれば土地を手に入れることは、割と容易だったといいます。
 植民地開発には、三つの枝があったといわれています。一つは、移民を斡旋する業者が土地を取得して、そこに移民を入植させるもの。二つ目は、大農場主たちが、不況で立ち行かなくなって土地を切り売りして手放すもの。そして三つ目は、移民集団のリーダーが先導して、自力で開拓するもの。「平野植民地」は、その一つでした。
 平野たちは、1915年(大正4年)、有志を募って、およそ4千ヘクタールの土地を取得して開拓を始めます。その時、平野は、30歳でした。
 想像を絶する苦労の連続でした。マラリアに感染して、多くの仲間とその家族が死んでゆきました。働き手を失った家族は、何処へともなく開拓地を去ってゆきました。旱魃にも苦しめられました。そして、蝗の大群です。やっと実った、収穫間近い農作物が一昼夜にして食い尽くされて全滅。気候の変化を読めずに、霜の害で壊滅的な打撃を受けたりしました。
 4年後、みんなのリーダーだった平野も、当時流行していたスペイン風邪のため、志半ばにして亡くなります。入植して4年、平野運平34歳の若さでした。
 しかし、残された者たちは、平野の遺志を継いで必死に頑張りました。
 郡司ひろさんたちの家族が入植したのは、それから11年後の、1930年(昭和5年)でした。その時の平野植民地には、105万7750本のコーヒーの木が育っていました。
 そんな独立独歩の植民地でしたが、郡司さん家族は、やがてそこを離れて、ブラジル国内を転々と移り歩きます。もちろん、少しでも条件のよいところを、と考えてのことだったのでしょうが、その辺の顛末は、郡司ひろさんの口からも、詳しくは聞けませんでした。
 物事には、陰と陽、光と陰があります。ですから、全てが悲惨な絶望に打ちひしがれた地獄ではなかったはずです。現に、その後、農地を拡大して手広く農園経営をされておられる方もいますし、政界や財界で活躍している日系人も数多くいます。
 現在、ブラジルの日系人は150万人、ブラジル総人口の8%にあたるそうです。そして、そのうちの32万人の三世、四世、五世の人たちが、日本へ来ています。いわゆる出稼ぎです。
 遠くて近い国、といわれるブラジルです。これを機会に、ブラジルという国、ブラジル移民の問題について、少しでも関心をお持ちいただければ幸いです。
(平成20年10月26日記
常陸太田市立図書館主催、企画展「ブラジル移民100周年を記念して」朗読)

 追記
 作中、度々特記しましたように、年代や統計数字を含めて、高橋幸春氏の著作から引用、参照させていただきました。引用を超える引用になってしまったかもしれません。改めて記してお礼申し上げます。

 参考図書・引用図書他
『ブラジル移民史』高橋幸春著・三一書房
『詩をポケットに』吉増剛造・日本放送出版協会
『中原中也詩集』河上徹太郎編・角川文庫
「茨城新聞(平成11年3月24日版)」
「郡司ひろ墓参記」川上千尋
B.G.M.:ENYA ‘FAIRY TALE’
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春の陽だまり(テキスト)6

 一面、日向苔に被われた、小ぶりで古びた墓石ではあったが、「中久喜家先祖代々之墓」という墓碑銘は、はっきりと読み取ることが出来た。籬に囲まれた墓地は、春の陽だまりの中で、静かな佇まいを見せていた。雑草もなくきれいに手入れが行き届いているのは、信四郎たちが日頃から世話をしてくれていたお陰であった。

「ひろさん、これがあなたの家の、先祖代々のお墓ですよ」
 それを聞くが早く、傍らで支える夫の手を振り払って、ひろは墓前へと駆け出した。墓の前で一瞬たじろいだひろだったが、いきなり身を投げ出すように墓石に抱きつくと、声を限りに叫んでいた。
「おかあさん、ただいま、ひろは今帰りました。ごめんなさい、ごめんなさい、もっと早く来たかった・・・おかあさん、ただいま・・・」
 ひろの嗚咽につられて、周りの者も、皆、目頭を押さえた。夫の成人が近づくと、ひろの肩を抱くようにして、よかった、よかった、と声を掛けたが、あとは、唯、涙、涙であった。
 離れて見守っていた川上は、感動のあまりこみ上げる涙を堪えるように空を仰いだ。芽吹き間近なケヤキの大木の梢の向うに、春の白い雲が浮かんでいた。あたり一面に、春の光が溢れていた。
 詩人、吉増剛造はいっている・・・「逝く人が、この世から去って行く人が、この世やわたくしたちに残す“特別のときの”ひかり」があると。そんな光を、川上も見たように思った。そして、何ものかの啓示のように、中原中也の詩が思い出された。

 陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺ってゐた

 4月4日。無事、母親の墓参りを済ませた郡司ひろたち、ブラジル在住茨城県人会一行は、成田発の飛行機で帰国の途に着いた。トランジットを含めて、25時間の長旅である。

「かわかみさま おてがみありがとうございました。
おひさしぶりです。みなさまおげんきで なにより うれしくおもいます。あれから7年もすぎました。はやいものですね。とおいブラジルへ また あそびにきてください。わたしも いばらきで たいへんおせわになりまして すごしたあのひを なつかしくおもいだします。ことしも げんきで たのしくすごしましょう。
 では おからだ たいせつに さようなら
 平成18年1がつ30にち  ぐんじ ひろ」

 手紙を書くために習ったという、たどたどしい平仮名だけの手紙。一生懸命綴った飾りのない文章だけに、かえって読むものの心を打つ。

 翌平成19年8月、ひろの友人という女性から、川上の元へ1通の手紙が届いた。郡司ひろの死亡を報せるものだった。享年84歳。
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春の陽だまり(テキスト)5

 3月28日、いよいよ千代川村へ向かう日が来た。宿舎を出た一行は、先ず土浦の亀城公園を散策した。次いで近くにある真鍋小学校を訪れた。校庭の一画には、県の天然記念物に指定されている、一本の巨樹桜がある。風雪に耐え、堂々と根を張る姿に夫々の思いがよぎるのか、太い幹に手をやって、じっと物思いに沈む会員の姿も見られた。
 日本の花、桜の花は、故国を離れたものにとっては心の花でもあるのだ。

 一行を乗せたバスは、国道294号線を西へと進む。
 バスの中は、ここ数日の間に訪問した町や風物や、出会った人たちとの思い出話で賑やかだった。日本語の中に、時々混じるポルトガル語が、一行のブラジル生活の長さを物語るようであった。
 郡司ひろは、運転席のすぐ後ろ、右手に見えてくるはずの筑波山を求めて、窓ガラスに顔を押し付けるように座っている。言葉を掛けるのが憚られるほど、ひろの背中が緊張している。その時だった。
「あっ!あれは!!」
 ひろが叫んだ。
「筑波山だ、筑波山だ、筑波山だ・・・」
 あとは言葉にならなかった。一同も、ひろの指差す窓の外に目をやった。春霞の中に、ゆったりと紫に煙る筑波山が姿を現している。今なお昔に変わらぬ、関東平野の名峰、筑波峰。ひろの心に宿り続け、悲しい時も苦しい時も、いつも励ましてくれた筑波山。それは、故郷を思う心の拠りどころでもあった山なのだ。
「おじいさんは、よくわたしに言い聞かせてくれました。冬寒くなると、山の頂が白くなって、とてもキレイなんだよ。ふるさとを忘れないように、しっかりと見て置くんだ。心の中に仕舞って置くんだ、とね」

「ひろさん、僕のこと、知っていますか?」
「はい、なつかしく思います」
 訪ね着いた千代川村大薗木の中久喜信四郎の家には、区長の中久喜登を始め、近所の中久喜好男も、ひろを待っていた。皆、懐かしい名前を持つ、同郷の人たちだった。しかし、同じ中久喜姓でも縁戚関係はなく、ひろの実家は、彼らがブラジルに渡って、絶えたのである。
 挨拶もそこそこに、案内を請い、ひろは墓地へ急いだ。墓地は、信四郎の家からはさほど遠くないところにあるのだが、ひろには途轍もなく遠くへ歩いてゆくように感じられた。気持ちに足がついてゆかない。過ぎ去った歳月のように、重く長い道のりに思えた。

「ひろさん、ここがそうです」
 ひろの足下を労るように先にたって案内していた信四郎が、ある墓の前で立ち止まると、手で指し示しながらひろに言った。
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春の陽だまり(テキスト)4

 川上が手にした手掛かりは、筑波山が東に見える土地であること、住んでいた地名はハッキリしないが、オ・ゾ・ノ・キという言葉を覚えていること、郡司ひろの旧姓が「中久喜(ナカクキ)」であること、などであった。
 川上はすぐに行動を開始した。まず、筑波山を東に見る市町村を手掛かりに、下妻市役所を訪れた。そして、隣りの結城郡千代川村にオオゾノキという地名のあること、一帯を管轄するのが下妻警察署であることを知った。
 ついで下妻警察署を訪れた川上は、応対に出た係官に、今までの経緯を説明して協力と調査を依頼した。

 若松を団長とする県人会一行が日本への帰国を果たして4日目の3月24日、新しく完成した茨城県庁舎の写真が大きく紙面を飾った茨城新聞の県民版に、郡司ひろの顔写真が掲載された。「先祖の墓所教えて、ブラジル県人会の郡司さん」と見出しが訴えている。滞在日と宿泊先、連絡の電話番号まで記されている。
 これといった情報もないままに、時が過ぎてしまう。4月4日にはブラジルへ戻らなければならない、残された時間はあと10日あまり。

 川上は、旧知の茨城新聞常陸太田支局の勝村記者を訪ねた。そして、郡司ひろの思いを熱く語った。手に持ったひろの写真は、川上の握った拳で皺くちゃになってしまった。
「分りました。記事にしましょう。いや、記事にさせてください。でも、川上さん、その皺くちゃの写真では新聞に掲載できませんよ」
 勝村と川上は顔を見合わせて笑った。

 3月25日夕刻、一行はその日の宿泊先、八郷町にある国民宿舎「つくばね」に入った。前方には、夕焼けを背にした筑波山の女体山が黒い影を見せていた。しかし、その姿を目にしても、ひろには何の感慨も浮かんでは来なかった。子どもの頃にひろの見た筑波山は、いつも朝日を背にして男体山、女体山が仲良く寄り添う山であった。赤い夕陽を浴びて、茜色に輝く美しい山であった。反対側から見る黒い影は、ひろに何も語ってはくれなかったのである。
 部屋に入って間もなく、宿舎の係員が、一枚のメモを持って現れた。下妻警察署からの伝言であった。
「お尋ねの件、千代川村大薗木260の中久喜信四郎さんに連絡下さい」というものであった。
 待ちに待った知らせであった。中久喜という苗字も懐かしい。ふるさとが急に近づいてきたような気がした。ひろは、嬉しさのあまり、床に膝をつくとメモを握った掌を合わせて、神に祈った。
「やっと来た、やっと帰れた。やっとお母さんに会える」
 頭の中が真っ白になった。69年の歳月が、ブラジルでの生活の一コマ一コマが、グルグルと回っている。傍らに立つ夫の成人も、黙って祈っている。
 喜びに震えながら、同時に、不思議な静けさがあった。例えようのない安らぎ、心の底からの安心に包まれていた。
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2009年05月22日

春の陽だまり(テキスト)3

 話を戻そう。
 平成11年3月。常陸太田市出身の若松孝司を団長とする、ブラジル茨城県人会の一行13名が、茨城県を訪れた。新しく建てられた茨城県庁舎の落成式に招かれたのである。
 その中に、夫と共に故国日本の土を踏む、郡司ひろがいた。
 成田空港に着いた時、人混みの中に、にこやかに微笑むひとりの男がいた。団長の若松が紹介してくれた。川上千尋であった。
 川上は、それ以前から、太田第一高等学校の同窓生という縁もあって、若松とは交流を深めていた。
 若松の帰国の折には、自宅に招き、ブラジルや日系移民のその後、茨城県人会会長を務めた苦労話などについて、話し合っていた。そして、今回の県人会帰国にあたって、若松からある一つのことを託されていたのである。

 5歳で国を離れて以来69年、一度も帰国することのなかったひろにとって、春三月の故国は暖かかった。何処を見ても、桜の花がほころび始めていた。菜の花が咲き、鳥は歌い、胸いっぱいに吸い込む故国の空気は、はるか昔のふるさとの匂いがした。そして、そんな風景にも増して、心から迎えてくれた郷土の人たちの心遣いが身に沁みた。
「早く会いたい。お母さんのお墓にお参りしたい。あの筑波山を見たい」
 ひろは、気持ちの高ぶりを抑えることができないまま、成田に降り立ったのである。

 それにしても、69年という歳月は余りにも長過ぎた。当時5歳だったひろの記憶には、ふるさとの風景はほとんど浮かんで来ない。ただ一つ、心の中に今もそびえている筑波山の姿だけは、祖父の言葉と共にはっきりと覚えている。
 帰国が叶う機会を得て、ひろは長年の願いを遂げたいと思った。何としても、母親の墓前にお参りして、今の自分を見てもらいたい。積もった話をしてみたい。何よりも、5歳の昔に返って人知れず母に甘えたい、と思った。
 しかし、過ぎ去った69年という歳月を思うと、ひろは途方に暮れた。故国には、これといった親族もいない、近況を確かめ合う知人もいない、どうしようか。
 ひろは思い切って、団長の若松を訪ねた。そして県庁落成式参列という公式訪問に、私事を持ち込んで申し訳ないと詫びながら、母親の墓前にお参りしたい気持ちを訴えたのである。
 
 昭和58年から60年まで、ブラジル在住茨城県人会、第七代の会長を務めた常陸太田出身の若松孝司は、「楽しい県人会」を目標に掲げて、ピクニック、芸能祭、俳句会、囲碁・将棋大会などを企画し、県人同士の親睦を深めるなど、郷土出身者の生活向上に尽力をしていた。また、県人会の将来を考え、二世会を発足させたり、日本への留学生や技術研修生の受け入れを県に働きかけるなど、公私共に、県人会に力を尽くしている人である。
 涙ながらに訴えるひろの願いを黙って聞いていた若松は、これこそが本当の故国訪問の意味ではないか、郷土を愛する心、親を思う心情に勝るものはない、と心から感動を覚えた。
 若松は、早速、川上に手紙を書いた。今回の帰国日程表とともに、「数少ない手掛かりだが、何としても郡司ひろさんの墓参りを実現させたい」と協力を頼んだ。
posted by vino at 19:37| Comment(0) | 掌編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

春の陽だまり(テキスト)2

 到着まで45日間の船旅であった。
「船では、運動会などをしながら過ごしました。あとは、海と空を眺めていました」
 やがて船は、移民受け入れ港のサントス港に着く。そして旅の疲れを癒す間もなく、人々はすぐに、平野植民地へと移動した。ひろ達家族も、2年契約の小作人として働くことになっていた。
 その後、家族は、現地の厳しい気候風土、農作物の出来不出来、現地人との言葉や習慣の違いなどに苦しみながら、各地を転々とすることになるのである。
 しかし、ひろはその間の苦労の多くを語ろうとしない。
「生活が安定したら、一日も早く日本に帰りたい。それだけを願って必死に働きました」

 ここで、日本人移民の背景について少し触れてみたい。(以下、『日系ブラジル移民史』高橋幸春著・三一書房 参照)
 日本人のブラジルへの移民は、明治41年に始まる。167家族、791人を乗せた笠戸丸が神戸港を出港した。国を挙げての移民政策の一環であった。もっとも、外国への移民はこれに始まったのではなく、それまで、移民の主流はアメリカだった。
 日本人移民の最初は、いわゆる「元年者」と呼ばれる移民たちだった。明治元年にハワイおよびグアム島へ集団で移民していった人々だとされている。
 当時の日本は、近代化を推し進めていたが、その過程で農村が崩壊していった。農民の土地税金、地租を当てにした国家財政が組まれ、農民にはそれが大きな負担となっていたのである。明治16年から23年までの8年間で、税金滞納で強制処分を受けたもの36万7千人。明治17年から19年までを見ても、すべての農耕地の七分の一が、借金の抵当流れになったと言われている。
 その結果、農村から都会へ、続々と人口が流れていった。しかし、それらの流出人口を飲み込めるほど、当時の日本は近代化が追いついていなかった。その過剰人口が、移民を生む背景の一つとなった。ハワイに送り出した第1回移民の申し込みは、およそ2万8千人にも達している。
 その後も移民は続々と送り出され、ハワイを基盤に北米大陸へと足を延ばしていった。 
 当時、アメリカに永住する心算で移住した移民は皆無に等しかった。目的はあくまでも出稼ぎだった。
 移民たちは故郷に錦を飾ることだけを夢見て、過酷な農園労働に耐えた。彼らに支払われる賃金は、日本国内に比べれば高い賃金だったが、アメリカ国内では、相対的に低い賃金に抑えられていた。その結果、アメリカ人の仕事を奪うこととなり、各地で「労働組合」の批判、攻撃を受け、黄色人種排斥、排日運動へとエスカレートしてゆくのである。
 アメリカへの道を閉ざされた移民希望者の前に広がったのが、日本の国土の22倍を超える広大で肥沃な土地、金のなる木コーヒーの生産国、ブラジルであった。
 移民を斡旋する業者の謳い文句にもある。
「ブラジルはアメリカのように日本人排斥もなければ土地も肥沃で、1日1円20銭の純利益が挙がる」。
 当時の日本では、小学校教員の初任給が10円から13円、銀行員初任給35円、国家公務員上級試験合格者初任給50円、日雇い労働者日給49銭から53銭。それに比べて、一日当り「3人家族で優に3円60銭の純収入を毎日貯蓄」出来るという宣伝文句に、誰もが心を動かされた。
 確かに、その当時、ブラジルはコーヒーの一大生産国であった。コーヒーの好景気にあおられて鉄道は伸び、原始林が開かれ次々にコーヒー園へと生まれ変わっていった。
 まさに、金のなる木コーヒー王国、ブラジルであった。
 しかし、さしものコーヒー景気にも1890年代の後半から陰りが見え始める。過剰生産による相場の暴落である。 
 皮肉なことに、日本の移民が初めてブラジルの土地を踏んだ1908年は、その前年のコーヒー大豊作の影響で全くの不作、加えて多くの大農場がそれまでの過剰生産による不況で苦しんでいた年であった。
 移民たちのその後の苦労、汗と涙、文字通り、死に物狂いの労働を強いられる、象徴的な移民元年であった。
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春の陽だまり(テキスト)1

 はじめに
 ブラジル移民百年の歴史の中に、ひとりの女性がいました。
 慎ましやかに、しかし、たくましく生き抜いた女性です。
 この企画展を立ち上げられた、川上千尋さんのお知り合いの方でした。
 長い歴史の中に埋もれてしまいそうな小さな小さなエピソードを紡いで、一つの物語が出来上がりました。
          ☆
 
 平成11年3月24日、茨城新聞紙上に、ひとりの女性が紹介された。
 郡司ひろ、74歳。ブラジルへ渡って69年、久し振りの故国日本への帰国である。
「先祖代々のお墓へお参りをしたいのですが、場所が特定できません。ご存知の方がいたら教えてください」。

 郡司ひろは、大正14年、結城郡千代川村、今の下妻市に、農家の五女として生れた。
 昭和5年、彼女が5歳の時に、家族は、貧しい所帯ををたたんで、憧れの土地、ブラジルへの移民となった。

 その数ヶ月前に、彼女は母親を病で亡くしていた。その悲しみも癒えないままに、家族は慌しく旅支度を整えなければならなかった。
「ひろ、あれが筑波山だ。お前がふるさとを忘れないように、あの山をよーく見て、覚えておくんだよ」。 ひろの肩に手をやりながら祖父の語った言葉を、彼女は生涯忘れなかった。

 神戸の港を出港した貨物船「ラブラタ丸」には、彼らと同じく、ブラジルに夢を抱く大勢の家族が乗船していた。
「辛抱して4,5年稼ぎ、1万円ばかし貯めて、鞄に札束を一杯つめて戻る心算だ。1万円もあったら、一生涯不自由はしない」
「親や親戚には、3千円貯まったら帰って来ると言って出てきた」
 口々に夢を語り合う大人たちの会話には、ブラジルに永住するなどという考えは露ほども伺えず、皆一様に、数年働いて金を貯めて、故郷に錦を飾る、というものであった。
 そのような考えが、いかに甘いものであったか、やがて、彼らは思い知らされるのである。

※これは、昨年10月にアップした『春の陽だまり』のテキスト版です。その時は、pdf版でご紹介していましたが、色々不具合が生じたため、そちらは閉鎖しました。改めて、7回に分けて紹介させていただきます。
 
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2009年05月21日

ハツユキカズラ

 
0520庭 005.jpg

 ハツユキカズラに花が咲いた。
 去年の葉が真っ赤に色づいて落葉し、代って、やわやわとした、白に薄いピンクを滲ませたような新芽が一面に吹いて、景色が一変した。
 ハツユキカズラは、この時期が一番美しい。
 竹で格子を組んで立ち上げたところに蔓を這わせ始めて3年目、苔庭の背景として、やっと馴染んできた。

 5弁の花びらが、追矢羽となっているので、花蕊のところに軸を通せば、そのまま風車となって回り出しそう。

 ハツユキカズラの根元の葉叢が、一瞬、騒いだのを見咎めると、2匹の蛇舅母が絡まって交尾をしている。
 静かに、している。
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2009年05月20日

交差する時間 - 空


落し文0514 048.jpg

空を見た
雲を見た
だんだん
雲が消えていった
青い空が残った

空を見ていた
だんだん
雲が生まれて
だんだん
雲が消えていった

空を見ていた
雲を見ていた
だんだん
あの人の顔になった
懐かしさが滲んで
だんだん
あの人が消えた
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2009年05月19日

交差する時間 - いる

道端に花が咲いている
そこには何があるのだろう
そこでは何が起きているのだろう

見ている僕がいなくても

道端には花が咲く
そこには何かがある
そこでは何かが起きている

僕がいなくても
見ている誰かがいる
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2009年05月18日

もの・がたり - 器


一輪挿し.JPG

 千円単位の雑器の釉薬の具合を云々するのはおこがましい限りだけれど、良いものは良い、というか好きなものは好き。
 織部様のものは、魯山人の器を含めて余り好きではない。釉薬の力に負けているか、形に逃げているかのどちらかで、陶器の諂いが勝ってしまうように思えてしまうのだ。(これ、好き嫌いの話)。
 桜川市に所用の帰り、笠間の陶器店を冷やかして見つけたのが、この一輪挿し。高さ8p、胴径7.5cm。
 首のところに釉薬の溜りが見えて、群青色がかっている、この色具合が何とも言えない。店の主は「徳利にするんですか?」と訝っていたが、構うことはない。一度、酒を入れて使ってみて、具合が悪ければ季節の花を活けるまでのこと。
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2009年05月17日

再び、落し文

 今回は、落し文の巣作りの一部始終を見てください。
 前回ご紹介しましたように、主脈を残して、左右両断した葉が、少しシンナリした頃合を見計らって、作業が始まりました。

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 およそ50分ほどで、落し文の巣が完成しました。
葉を巻いたり、折り畳んだりするときは、背中を丸めて渾身の力を込め、前足と後ろ足で引っ張り合うようにします。その時、漆黒の光沢のある甲殻が、マット状に曇ってきます。
 作業を見ていて、「あの小さな昆虫が健気にも」、などとは言えなくなりました。命の営みの神秘さ、「大きさ」を見たように思いました。
 小庭の落し文、現在16通。
※ヤ、ヤ、ヤ、この写真の並びは!どうしたら均等に綺麗に貼り付けられるのか、ムニャムニャムニャ。
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2009年05月13日

落し文の追伸


落し文 011.jpg 

 落し文の発信人が姿を現した。全長6〜7o、触角を入れても、1p足らずの甲虫。


落し文 010.jpg

 葉の縁に取り付いて、作業開始。細く伸びた口先を、ルーターのように使って、切り離す。これを、主脈を残して両側、切ってゆく。


落し文 009.jpg

 この辺まで、彼女(卵を産むのだから、これはどう見ても雌)の作業を見届けたところで、首が痛くなって、観察中断。

 
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 しばらくして行ってみると、葉巻作業は終っていました。あの小さな身体で、どうやって葉を巻き上げてゆくのか、まだその作業にはお目にかかれないでいます。
 小庭の檪、ミズナラの木に、今日現在、14個の落し文。


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2009年05月10日

醍醐味

 
ファウストIMG.jpg 読みかけて途中で投げてしまった本は沢山あるけれど、何故か心に引っかかっている作品も多い。
 ゲーテの大作、『ファウスト』もそのひとつ。以前、誰の訳だったか、読んだ当時、生硬で持って回ったような訳文に辟易して挫折してしまったことを覚えている。
 先日、行きつけの書店の書架から、目に飛び込んできたのが、今年の4月に補訂版として出版された、小西 悟訳の『ファウスト』(本の泉社)。
 あー、『ファウスト』ってこんなに面白い本だったんだ、と長大な詩劇に酔いながら読み進めているところ。
 訳文がこなれていて、ファウスト博士もメフィストもイキイキと動き回っている。
 脚注も過でなく不足でなく、時代背景や作品の深意にまで踏み込んで、丁寧に考証されている。
 小西氏の、この作品に対する一方ならぬ思い入れと、かのゲーテに対する畏怖の念が伝わってくる、まさに、名訳といえるでしょう。
 いま、第一部「夕」の場で、メフィストの手引きによりF博士がマルガレーテに会った場面に差し掛かった・・・。
 
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2009年05月08日

トゥワイライト・ライヴ?


外国語絵本おはなし会プロIMG.jpg 外国語に親しみながら、物語りを聴く、そんな集まりです。
 2回目の今年は、スペイン語が増えて、英語、、中国語そしてイタリア語。
 当方は、木村裕一の名作、『あらしのよるに』のイタリア語版を読むことになった。当方以外は、すべてネイティヴの皆さん。トホホホ。
 当日は、図書館の開館時間を延長してのイヴェントになります。
 心は早くも、Ah! Temporale!です。
 お近くの方は、どうぞ、お出かけ下さい。
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2009年05月04日

「落し文」の初便り

 
落し文 005.jpg

 芽吹いてもなお、防寒コートのように去年の枯葉を着けていた小庭の檪の木も、やっと衣替えを終えて新緑がまぶしい、と見ると、早くも「落し文」の便りが目に付いた。
 文に使った葉っぱの青みがまだ残っているから、最近のことに違いない。
 もう少しすれば、ハーレムが見られるかもしれない。
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2009年05月02日

綿の種

 
綿の種 001.jpg

 今朝、知人から貰って置いた綿の種を播いた。遅くとも4月中旬には播くように、と言われていたのをすっかり忘れてしまっていた。 
 文字通り綿帽子を被った種の着いた枝を、書棚の本と本の間に差し込んでおいて、忘れないようにと毎日のように目にしていたのに、この始末。
 手頃な鉢は?、と探し出してみると、なにやら立ち枯れたものが・・・、な、なんと!!冬を越せずに枯らしてしまったコーヒーの木でした。もしかして、根が丈夫ならば、春には奇跡が・・・、起こりませんでした。抜いてみると、4本とも、しっかりと根を張っていました。
 
綿の種 002.jpg

 オイ、綿クン、そういう訳だから、この上は元気に育ってくれたまえ、と念じつつ10粒。

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2009年05月01日

石を見て(断想)

 砂浜にある砂の数だけ、それらを時間の欠片と見た人は、波の音を憎んで汀に立ち尽くし、自分を見失う。
 砂漠にある砂の数だけ、それらを時間の欠片と見た人は、風の音を憎みながら星空を見上げて、自分を見失う。
 砂の一粒一粒が、巨大な岩の塊に昇華しはじめると、その人に祈りが生れ、蜃気楼の揺らめきがその人に愛の在りかを示す。

 太古の昔、石はひとつの武器であったが、それは偶然からの発見であったかもしれない。男が、拾い上げた石を自分の足指に落として激痛を感じたとき、同時に敵の痛みになり得ることを悟って以来のこと、と。
 男は、女や子供を養うために、食糧となる獲物を必要としたから、頻繁に石を投げ、獲物を追った、それ以来のこと、と。
 不完全な己に欠けているものを満たすために、男は石を造化して、小さなものは掌で玩び、大きなものは野原に積んで場となした。
 また、男は、石を刻んで積み上げれば、丘や山とは違ったガランドウの高みが現実することに嬉々として励んだ。そのガランドウは、内に暗闇を、表に太陽の光を集めた。
 輝く闇の中で、男は生と死の交差路を見た。
 
 石が砂となる経過を、男は知る由もない。石は自分の埒外にあり、砂は自分の垂れ流した汚物のように足下に糜爛している。

 砂浜にある砂の数だけ、破壊と生成と渇仰があり、砂漠にある砂の数だけ、凄烈な粒子の流動があり、脈動する死がある。
posted by vino at 16:52| Comment(0) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする