2010年04月29日

 
DSC05937.JPG きのうは、一日中雨が降り続いた。辺りが白く煙るほど強い雨脚だった。
 小庭に群がって咲く勿忘草に、名残の雫が、やっと顔を出した陽の光に輝いている。
 小さな花に小さな雫。
 思うほど、春の雨は邪険ではないのかもしれない。
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2010年04月28日

交差する時間 - アルコホル・ラムプ

仄かにも華やぐ炎
陽炎の
影を宿せる揺らぎもて
吾心寄り添ひて
温もりぬ

儚くも惑へる炎
彼のひとの
影の偲ばる揺らぎもて
吾心ひとりなむ
和みゐて

然而も漫ろに眺めゐる
炎の侭に
身を焦がす時の過ぎ行く

仄かにも華やぐ炎

儚くも惑へる炎
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2010年04月26日

ふたりの「午後」

 例によって、乱読、併読のこと。


『午後の椅子』.jpg 『午後の椅子』(岡本 眸・ふらんす堂)

 いつだったか、どこでだったか、次の句を目にして心打たれた。

 日脚伸ぶ亡夫の椅子に甥がいて

 この句の作者が岡本さんで、ふらんす堂から十冊目の句集『午後の椅子』出版の案内をもらった折りに買い求めた。
 しかし、上記の句は見当たらなかった。
 句集から、「午後」の句を引かせていただく。

 島裏に午後は日の来て虫鳴けり
 万両に日向移りて午後の景
 毛糸籠時計が鳴って午後となる
 石蕗咲いて午後の時間のひと握り
 このところ午後は崩れて蕪蒸し

 1句から4句。止まっていたかに思えた時が、ふと気付いてみると、日の移ろいとともに陰影を移して、「午後となる」。
「時計が鳴って」気付くのはその時の午後だけれど、忍び寄る気配の「午後」でもある。
 5句。午後になると時雨勝ちな冬のある日、ひとりの口には驕った蕪蒸しをつくった。慣れた味が、鬱気を払うかに思えた午後だったけれど・・・。
 また、次のような句もみえる。

 夫あらば図らむ一事夜の長さ
 緑さす素足の冷えをひとり言


『ひとりの午後に』.jpg 『ひとりの午後に』(上野千鶴子・NHK出版)

<「あなたは向かい風が似合うわね」と言われて、それから「向かい風の女」になった。
「逆風に強い」とも言われたことがある。>

「向かい風」も「逆風」も、「時代の風」の比喩。しかし、「ほんものの風も好き」、台風の風さえも、というから、この作者には、やはり、前傾姿勢が合っているらしい。
 おひとりさまは、たとえば大晦日から元日にかけて友人と寄り集まって「家族する」ことはあっても、「家族持ち」になることはない、という。
 一読、これは、「ひとりの午後に」座る椅子を求めるべく始めた、プライベート・レッスンというか、シミュレーションあるいは、セルフ・オリエンテーション(こんな言葉があっての話だけれど)のテキスト、と断じた。
 向かい風にも逆風にも弱い当方にとっては、台風の風をも喜ぶ人はあまりにも強すぎて、「異星人」のように思える。
 
 声高に壇上から「おひとりさま」を呼ばわっても、ひとり静かに毛糸籠から糸を手繰っていても、「午後」は変わらずに訪れてくる。
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2010年04月23日

交差する時間 - Stand by me

青ざめたボールが宙を切る
夕べ
彼のひとに奉げるはずの
言葉を
弾き飛ばしながら・・・
その言葉を拾って
嘗める
猫の舌からは
青白い光が迸り出て
ボールの行方を焼く

何と言うこともなく
ありふれた時計盤の上で
二人は汗を拭う
時に重なり
時に交差して
行く
分針と時針に擬えて・・・

青ざめたボールが宙を切る
その軌跡に
二人はテニスラケットを放り投げた
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2010年04月21日

葉 桜

 青葉さへ見れば心のとまるかな
     散りにし花の名残りとおもへば 西行
 
 惜花、落花と季節は進んで、早や葉桜の季。
 今年は桜の開花の後に低温の日が続いたせいか、例年より長く花を見たように思う。
 桜の木の下には一面に花弁が散り敷いていて、木の下闇が明らんでいる。
 葉桜と言い慣わすのは、単に、花が終って若葉が芽吹いた状景をのみ言うのではなく、この樹下の様をも掬いとって詠う心の現れであり、後花とは、つくづく美しい日本語だと感心させられる。
 花木センターで、デルフィニウム、ミモザアカシア、それぞれ中鉢大のもの一鉢ずつ。
 植木コーナーでは、サワフタギが早くも芽吹いている。以前記事にした株は、「出張植え込みで、○○円なら安いでしょう」と言われたけれど、係の人は覚えていて、「残念でした、あれは、もう売れました」とのこと。代わりに勧められたのが、目の高さほどの株立ちながら枝ぶりも良く、花の蕾もたくさん付いているもので、お持ち帰り△△円也。
 来月、退院祝いにしてくれない?と家人にねだっておいた。
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2010年04月17日

遅い雪

  雪とぢし谷の古巣をおもひいでて
            花にむつるる鶯の声  西行
 
 他に、桜の花を雪と見る歌を何首も残している西行だけれど、ひょっとして、桜に降りかかる雪を実際に見たのかもしれないなどと思わせられる、今朝の雪だった。

DSC05919.JPG そうと知ってか知らずか、ハナイカダの幼葉が蕾を包み込んでいる。
 庭の土に馴染んだのか、今年は随分株が増えて、その何れの枝にも蕾が付いた。






DSC05921.JPG 去年は、花も実も見ることがなかった鉢植えのアケビに、十房ほど蕾が付いている。江戸紫に近い色の小さな花房だけれど、後の艶めいた紫を秘めているようで見惚れてしまった。
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2010年04月14日

「その時」のあとさき( 断想 )

当然至極、無表情のまま「その時」は降りてきた。前後左右横軸からではなく上方斜行しながら或は螺旋を描きながら降りてきた。そして私を掠めて更に下方へ降りて行った。「その時」は留まることなく私の周りの全てを掠め取るように巨大化して通り過ぎた。その時気付いたのではなく「その時」が降りて行くその後ろ姿が仄見えた時に感じたのだが淡く沸いた苛立ちはそれと原形化する前に消えた。「あぁそういうことか」。諦念とも厭世感とも異なるもっと大きなものの図体に包摂されてある雰囲気に気付いたに過ぎないのだが・・・。思い惑う間もなく次の「その時」はやってくる。より確然としたより一層赫然としたしかしそれでいて掴みどころのない気体化された固体か固体化された気体か何か意識を超えた「存在」或は「形」としてやってくる。

後記:先月30日、胃カメラ検査の結果、胃にポリープが見つかった。生体検査(顕微鏡細胞検査)の結果を今日聞きに行って、危うくセーフ、良性のポリープだった。ただ、2センチ近い大きさなので悪性化するといけないから取りましょう、ということで、来月、1週間ほど入院してポリペクトミ(内視鏡による切除処置)をしてもらうことになった。この2週間、鬱々として日を送ってきたけれど、今日、「その時」が流星のごとく掠め飛んで行った。
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2010年04月13日

証し( 断想 )

旅を終えるように生を終えることが出来るだろうか。支度を整えて旅に発ってから目まぐるしいまでの旅路のあちこちでの出会い。別れ。喜び。憎しみ。愛は言うまい。それは生ある限りたゆたう泡のように消えては生まれるものだから思い出にさえなれない。掴もうとして指の先を逃げる朗らかな笑い声とともに・・・。旅を終えるように生を終えることなど出来るはずがない。荷解きをして旅の途上にあったあれこれを思い出す間もなく命はフッと消えて行く。悲しみは生きている間のもの。死後にあるのは死そのもの。さあ旅に出ようか。還ってくる旅へ。還れない旅へ。手荷物は既に無い。何故なら確たる日常から剝して手元に残したと信じたものは実は剝されて宙に漂う空っぽな鞄に過ぎないのだから。
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2010年04月12日

花は花でも

 今さらに春を忘るる花もあらじ
    やすく待ちつつ今日も暮さん 西行

 
DSC05901.JPG 土囲いもせずにいて、我が家の小さな菜園で青々と葉を繁らせ、この冬中食膳に上った大根も、土中の部分を残して腐り始めた。そろそろ、夏野菜の準備をしなければならない。
 菜園の辺に抜き捨てた大根に、花が咲いている。
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2010年04月11日

交差する時間 - 告白

わたし 好きです
と言われた。

僕が ではなく
あのひとが言ったことの
敬語表現です。

いつも受身です。

僕 好きです
と言ってみたい。


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2010年04月10日

交差する時間 - ボン・ジョルノ!

孫娘がね 銀座の帽子店で
前のやつは 爺くさいから嫌だって

深緑色のキャップに 銀色の刺繍が眩しい
ボルサリーノのエンブレム

ただ困ったのはね
挨拶の時 帽子がね 脱げない
農作業で汚れた手で さわれない
ごめんなさいよ

農協から貰ったやつは随分被っていて
好きだったんだけどね
あ イタリアのお百姓さんは
足に何を履いて仕事するのかね
地下足袋はないよね
同じ 米たくさん作ってるって言うじゃない

え 靴か 靴では百姓出来ないなあ
困ったなあ あははは

じゃ ごめんなさい

(あ 帽子脱いだ!)
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2010年04月07日

釜一口のみニシて - その2

 前項では、堀田善衛氏のことを引き過ぎたようで、タイトルと結びつかずに終わってしまった。ひところ、全集を読み耽った堀田氏の名前を見つけて、思わず前のめりになったのが原因。
 さて、タイトルのこと。
 これは、やはり『俳句の周辺』に収録されている「一期一会、一座建立、独座観念」から引いたもので、井伊直弼の『茶湯一会集』による。

・・・一期一会ということは、『山上宗二記』に初めて見えるが、宗二が言い出したことではないだろう。たぶん師の利休が言ったか、そのまた師の紹鷗か、あるいはもっと古く珠光か。・・・この一期一会ということに、近世になって独特の新しい光をあてて解釈し直したのは、井伊直弼であったらしい。・・・

 確かに『山上宗二記』では、「また十体の事」の中に、利休の言葉として、「・・・一期に一度の参会の様に・・・」と出てくる。
 この項、諸説あって確定はしていないらしいが、珠光の一紙目録に連なる茶の湯の秘伝とも言えそう、という。
 茶の湯の奥義、大老としての井伊直弼の人となりについては言及する任にはないので、また引用に戻る。長いけれど、一語一句の思いで読むことにする。

・・・彼が説いていることで私が注目したのは、一期一会のあとの独座観念についてである。
 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を出るに、高声に咄さず、静ニあと見かへり出行バ、亭主ハ猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也、・・・いかにも心静に茶席に立もどり、此時にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきニ、もはや何方まで可被参哉、今日一期一会済て、ふたたびかへらざる事を観念シ、或ハ独服をもいたす事、是一会極意の習なり、此時寂莫として、打語ふものとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物 なし、・・・

 政務急を告げる時局にあって、ここまで深い洞察と「時」を見切った覚悟の潔さに、直弼の新しい一面を知らされる。 そして、利休、織部の自刃、宗二の凄惨な処刑、直弼の末路と上げて行くと、「侘び」、「寂び」、寂莫と静謐の極みの露地や茶室の薄暗がりの中に、血腥い時代の喧騒が沸き立ってくる。
 直弼暗殺の翌年、1861年には、アメリカで南北戦争が始まっている。歴史に、「たら」、「れば」は禁句のことと承知の上で思うのは、もし、この南北戦争という内憂がなかったら、日本は、一気に、アメリカに飲み込まれていたかもしれない、ということ。
 実に、一座建立、一期一会のあとの独座観念で広く遠く歴史を見通すこと、釜の口から吹き出すのは煮えたぎる湯の蒸気ばかりではないことなどを知ることの肝要さを教えられる。
 
※文中の・・・〜・・・は、『山本健吉俳句読本 第五巻 俳句の周辺』(角川文化振興財団編・角川書店)から引用させていただきました。
posted by vino at 17:56| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月06日

釜一口のみニシて - その1

 
俳句の周辺.jpg 例によって、乱読、併読のこと。
『山本健吉俳句読本 第五巻 俳句の周辺』(角川文化振興財団編・角川書店)

「また新しく生きられる!また新しく生きられる!」---こう言って君は立って行った。歌うように、軽やかな足取りで---。・・・
 もう言うことはない。さらば征けよ。戦いが勝利に終わる日までは還るな。(空ばかりを見るな、足許に気を付けよ。)誠に、君が還る時、我々の上に輝かしい勝利の日は輝いているであろう。(1944・2)

 これは、「堀田善衛君の応召を送る序」から引いた。 『最新俳句歳時記』(文藝春秋)などの大著をはじめ、俳句に関わる評論、著作を数多くものしている「俳句の人」山本健吉が、軽妙な味わい深い随筆をたくさん残しているのを最近になって知った。
 冒頭の「序」は、同じく「批評」に拠った堀田への送別の辞で、全篇、沸々と沸く怒りの思いが惜別の情に含ませて綴られている。
 何に対する怒りか。
(1944・2)とあるから、戦局漸く只ならぬ中、敬愛する友を戦地に送らなければならない時局への、ここにまで国を導き来った「当局者」への激烈な憤怒、アイロニィに違いない。
 賢察する人山本が、「我々の上に輝かしい勝利の日」が輝かないのを知らぬはずはない。
 だからこれは、< 生きて還れ、その日から、自分たちの本当の戦いがある、自分たちの手で輝かしい勝利の日々を築こう >という、共に文学に励んだ畏友への、やり場所のない痛哭に他ならず、まかり間違えば運命の女神の気まぐれで、そのまま追悼の言葉になるはずの、ギリギリの叫びでもあった。
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2010年04月05日

お話し会

 4月から市立図書館で、お話し会のひとつを担当することになった。毎月第1土曜日の午後2時から、絵本や物語、紙芝居などを読む。
 聞きに来てくれるのは、母親に手を引かれた幼児から小学生まで、その時々で様々に変わる。だから、数冊、本命のほかに予備を準備して、臨機応変に対応する。
 時には、ひとりだけの聴き手と対しなければならないこともあるそうだから、手強い。
 3日に読んだ本は2冊、
●『こやたちのひとりごと』(谷川俊太郎/文・中里和人/写真:ビリケン出版)
●『てんごくのおとうちゃん』(文・絵 長谷川義史:講談社)

『こやたち〜』は、今すぐにでも会いに行きたい小屋の写真がいっぱい。「小屋名人」の中里氏の写真が素晴らしい。この写真集、写真が先にあったのか、ひとりごとが先に生まれたのか、どちらなのだろうか。
「こやたち」に会いに行って、窓があれば覗いてみたい、ドアがあれば、「ごめん下さい」と声を掛けて開けてみたい。「こやたち」の建つ同じ土の上に腰を下ろして、一緒に風に吹かれながら青空を仰いでみたい。
 そんな気持ちで読んだつもり。


てんごくのおとうちゃん.jpg 『てんごくの〜』は、長谷川氏独特の筆致の絵を見て読むことに決めた。あー、こんな絵の描いてある絵本を子供たちと一緒に読めるとは、何と幸せなんだろうか、と思う。

 はいけい、てんごくの おとうちゃん、げんきに してますか。

 健気な小学3年生の男の子を応援しながら読んだ。泣きながら読んだ。
 読み終えた時、一番前にいた小学1年生くらいの女の子が、小さなため息をついた。
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2010年04月04日

交差する時間 - 叫び

子供らの叫びは常に今に起因している
既にして懐かしい悔恨に満ちた生体感覚を伴って
他者の影の中にいる

自己完結しか知らない彼らは
叫びの到達点に着地して初めて
己の脚に気づく
あるいは
その叫びの谺を背後に聞いて初めて
己の耳に気づく

傲らかにある迷い子の立ち姿に驚いて・・・
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2010年04月03日

白石加代子「百物語」


白石加代子.jpg 白石加代子「百物語」シリーズ・第二十七夜
「銀河鉄道の夜」宮沢賢治
 水戸芸術館ACM劇場
 4月2日

 朗読を聴く楽しさは、ひとつには、読み手が文字を追いながら何時しか文字を離れ、「ことば」として表現する、そのろ過作用の手続き、手際に立ち会うことにあると思う。
 その進行過程には、ときに、素のままの読み手が露わになり、演劇における役者よりも強く読み手の人となりが現れる。
 ろ過された「はなし」は、化学反応を起こして新たなイメージ群を伴いながら、蒸気となり化合物となって聴き手を刺激し始める。暗闇に、読まれる作品のハレーションが浮かび上がり、読み手と聴き手の間を漂い、共鳴しながら行ったり来たりする。
 やがて朗読は、読み手のものではなくなり、かと言って聴き手のものでもなくなり、二者の間に揺れ動く異相のもの、「ことば」が本来持っている、強い「雰囲気」と言ったものに変容を遂げて行く。
 読み手の演技は禁欲的なまでに抑えられ、いつでも手にした「本」に収束される。それは、動く人、演技する人、白石加代子でも同じだ。
 主役は、照明される「本」であり、そこから言動する「ことば」なのだから。
 
 今宵、銀河の流れを横切った、ひとつの光を見たことは確かだ。殊に、前口上で、賢治の詩のひとつ、大好きな「薤露青」に触れられたので、なおさら感動が極まったのかもしれない。
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2010年04月01日

ポニョに、また会う

 
伊語絵本.jpg イタリア雑貨店、trentaのホームページをのぞいたら、“崖の上のポニョ”のイタリア語版DVD“Ponyo sulla scogliera”を見つけたので、さっそく注文する。他に、“Il corvo e la volpe”( Edizioni EL社刊 )、こちらは、夏休みに市立図書館で行われる「外国語絵本の読み聞かせ会」用に求めたもので、お話は、カラスとキツネの、一切れのパンをめぐるあれこれ。発表会までに、今から読み込んでおかなければならない。
“Ponyo sulla scogliera”は、物語、画面はそのままに、イタリアの俳優による吹き替え版。
 テンポの早い画面転換には、早口のイ語の台詞がむしろ心地よい。( これは、聴き取れるかどうかは別問題? )
 Sosuke役もPonyo役もRisa役も、その他おばあさんたちも、初めからこのように製作されたかのように、表現力もぴったり壺にはまって、あっと言う間に見終えてしまった。映画館で劇場版を見たはずが、見逃していた場面も何箇所かあって、新鮮な驚きとともに、改めて、スタジオ・ジブリの力量を感じさせられた。この作品が何カ国に紹介されているのか不明だけれど、たくさんの国々で子供から大人まで、同じ感動を与えているに違いないと思うと、こんな嬉しいことはない。
 世界に通用するアニメ作品が、今後もどんどん生まれることを期待したい。
  
 残念ながら、“となりのトトロ”は、売り切れで入荷予定なし、だった。
 ネコバスの台詞、イ語で聞きたかったなぁ。
posted by vino at 15:03| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする