2016年11月20日

「二冊の本」後日

 例によって、乱読、併読のこと。

『前 途』(庄野潤三、講談社)

 本棚の並べ替えをしているときに、床に積んで仮置きしていた本が崩れて一冊の本が飛び出てきた。庄野潤三の『前途』だった。昨年の6月に、「二冊の本」というタイトルで、野呂邦暢の『夕暮れの緑の光』を紹介したときにも触れたけれど、昭和17年から18年にかけての著者の九大での生活を中心につづられた作品で、詩人伊東静雄との師弟関係や学友、校友との青春の交流を描いたもの。
 時局はますますひっ迫しており、アッツ島での日本軍の玉砕などにも言及するが、著者独特の淡々とした筆致は踊るところがない。
 ところどころ拾い読みをして片づけるつもりだったけれど、庄野氏の筆力に引きずり込まれて、一気に通読してしまった。
 『夕暮れの〜』中にも引かれている、
 前途程遠し思ひを鴈山のゆふべの雲に馳せ、
 後会期遥かなり纓を鴻臚のあかつきの涙にうるほす (『和漢朗詠集』)
には、様々な思いが溢れる。この詩句にある、『前途』も『夕べの雲』も庄野さんの作品名にあり、当方にとっては青春の譜であった。

・・・今度は海軍航空予備学生が任官後、六ヵ月の命である。その期間中に殆どの者が戦死する。七〇%が死ぬということを小高が昨日、聞いてきたと話す。・・・
・・・帰る時、小高が、「もうお目にかかれないと思いますが、お世話になりっぱなしで」と云ってお辞儀をしたが、日野先生もちょっと辛そうだった。・・・

 折しも、南スーダンへ赴いた若き自衛隊諸氏の安寧を祈らずにはいられない。
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2015年06月26日

二冊の本

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 例によって、乱読、併読のこと。
 セブンイレブンで、ネットショップの本を受け取って帰宅すると、丁度、宅急便で荷物が届いたところだった。こちらは、注文していた本の出版元からの直送便。
 さっそく包みをあけてみて驚いた。心待ちにしていた長田弘の詩集ではなく、いま受け取ってきたばかりの『野呂邦暢随筆選 夕暮れの緑の光』(岡崎武志編・みすず書房)ではないか!
 そうだった、ネットショップで注文したところ、在庫がないので注文予約扱いになり、少し時間がかかりそう、ということだったのだ。その間、みすず書房からのメールで新刊案内を検索して、長田弘の詩集を注文するときに目に付いた『夕暮れ〜』も一緒に頼んだのだった。そのときは、セブンショップの方はキャンセルするつもりでいて・・・忘れてしまったらしい?自分の迂闊さに苦笑するしかないけれど・・・。
 それはともかく、「いちばん大事なことから書く。それは、野呂邦暢が、小説の名手であるとともに、随筆の名手でもあったということだ。・・・」と「解説」に言われるように、長短、軽重はあっても、随筆の面白さを十分堪能することが出来た。
 なかで、「伊東靜雄の諫早」は、随筆の枠を超えた一級の詩人論となっていて、大事な詩人がそこに歩き出したような想いを得た。
---詩人には「わが死せむ日」がつねに想定されているのに対して、小説家の脳裡にはただいま生きている現在と生活してきた過去だけで充分という思いがある。詩人が常時むかいあっているのが絶対であれば、散文家はいつも世界の相対化にうきみをやつしている。「死せむ日」なぞ実はどうでもいいのである。
 
 当方は、古書店で本を買うことはあっても、古書店に本を払い下げる習慣がない。市立図書館の蔵書検索でわずかに数冊だった野呂邦暢の作品群に加えて貰うのはどうだろうか。
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2015年05月01日

どうしよう・・・精好仙台平の謎

 朗読の発表会に読みたいと、前から温めていた、立原正秋著『雪舞い』の下読みを始めて、あれ!?という文章にぶつかった。
 世阿弥の花伝書を下敷きに古今集の小野小町の歌を引き、男女を問わず美しく萎れることの難しさを、立原流に描いた「萎れし花」。能楽堂で出会った老女の得も言えぬ色気について語りだし・・・
《 ・・・その日に観た能は全部憶えていないが、あの老女の風姿だけは正確に記憶にとどめている。精好仙台平の白生地に老梅の水墨画を揮毫した気品ある訪問着で、けっして美人ではない。・・・》とある。仙台平は、ご存知のように仙台市にある、その名も合資会社 仙台平だけが生産している独特の織物で、袴地や帯地に特化しているはず。白生地や訪問着仕立てなどあるものなのだろうか。不明のまま朗読するわけにもゆかないと、先日、仙台平さんのホームページから、このような生地があるのかどうか、このような仕立てが可能なのかどうか訊ねることにした。
 このほど次のような返事を頂いた。
〈 精好仙台平の生地は、先染めされた後、縞柄や色無地の袴地・帯地などに織られます。白生地で織ることはありませんので、記述のような生地や仕立てはできないと存じます。〉
 
 立原氏は、確か普段着は結城紬などを愛用するほどの着物好きで知られた御仁だったから、その薀蓄の一端を披露されたのだろうけれど、今となっては確かめようもなく、どうしたものか、花は萎れたままにして置くべきか、考えあぐねている。
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2014年10月13日

『 k 』

 例によって、乱読、併読のこと

『 K 』 (  三木 卓、講談社  )

 ㊂ さんへ
 業病に倒れてから、あの世とこの世との往還の中、< 遠くで 涙をふきこぼしている男がいる >ことを、わたしは自分の中で育てていました。己の慟哭を「 男 」に仮託して視る「 わたし 」を仮想し、やっとの思いで、仮初、心の均衡を得たのでした。そんな男( ひと )を男らしい人と言わずに何としましょう。
『 K 』の上梓、ありがとう・・・。 ⓚ  代筆
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2014年05月31日

飛燕草(チドリソウ)

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 例によって、乱読、併読のこと。

『わが心の故郷 アルプス南麓の村』(ヘルマン・ヘッセ、岡田朝雄訳、草思社)
〈 森や湖や緑の丘で、薄い麻の上着とオープンカラーのシャツという簡単な、気楽な服装で、絵を描いたり、散歩をしたり、山野を跋渉したりして過ごした 〉年月に物したエッセイであり詩であり水彩画の数々。
〈 ごく最近になって贈られたものの中では、私はとりわけ私の女友だちから贈られた古風なワイングラス型の美しいガラスの花瓶を大切にしている。この透き通った花瓶はたいてい、百日草とか、石竹とか、あるいは小さな野の花が時に応じて数本ずつ挿してある。私がこの花瓶をもらって初めて見たときには、淡青色の飛燕草の束が挿してあった。それを私はまだよく覚えている。空気のように軽い感じで、この世のものと思えぬほどにやさしい青い花が、キラキラ光るガラスの上に浮かんでいた。あのときは太陽が照り輝く夏であった。そして夕方には森に沿って、ほとんど花が咲き終わったばかりの葡萄畑のかたわらをそぞろ歩いたものであった。そして私たちの頭上には飛燕草のように青い夏空がひろがっていた。〉(「室内の散歩」から)
 
 いいですねえ。鬱屈した気分から解放されるためには、ときに、こんな美しい文章に浸ってみるのも一法かと。
※ 2006/6/15「チドリソウ」も合わせご高覧ください。
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2012年10月30日

サタ、サタ、サタ・・・

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 例によって、乱読、併読のこと。
『泥鰌庵閑話(どぜうあんつれづればなし)- 傑作選』(滝田ゆう、なぎら健壱編、ちくま文庫)

 面白てやがてかなしき鵜舟哉 芭蕉
 
 罪も報いも、後の世も忘れはてておもしろや。・・・闇路に帰る此身の、名残をしさを如何にせん 謡曲「鵜飼」

 独特の線描のタッチで描き出される登場人物も酒場も横丁界隈も、みんな哀しい。
 呑んで、歌って、騒いで酔いつぶれて、あらぬ酔態をさらし、醒めてみれば我にもあらず涙ぐむ。
 漫画の台詞は吹き出しで吐かれる。それは、自覚した、自発的な、言ってみれば外言語。滝田ゆうの漫画の特異性は、泡々の吹き出しに描かれる。ポップアートのような、「下駄」、「ろうそく」、「のこぎり」、そして息巻く「ボルトとナット」などなど。絶妙のタイミングで浮き出るこれらの想念は、言うなれば内言語といえるだろう。言葉にならない、言葉にしようのない、言葉にしたところで身も蓋もない事ども。それらは、単なる呟きではなく、もっと心相の底部からにじみ出る、重い重い、想い。
 面白半分に数えてみたら、133のアイテムで288個の泡々。滝田ゆうのトレードマークの一つである「下駄」が22個で一位。以下、裸も傘もある「電球」が12個、「如露」11、「銚子と猪口」11、「金槌」10、灯るも消えるも「ロウソク」10、「アイスクリーム」8、風に揺れる「風船」と「コウモリ傘」が6、「ブロッター」、「吊り輪」、「バケツ」etc.。
 その全盛期でさえ、あの酒の飲み方は尋常ではない、ある意味自殺行為だと危ぶまれた滝田ゆう。飄々とした着流しの懐にどんな苦渋を隠していたのか。
 酔いつぶれて宿酔で目覚めるシーンのコマもいくつか登場するけれど、それは、もうひとりの自分と出会う儀式のようなもの。ほろ酔いの状態で登場して内外するもうひとりの自分とは全くの別人であるのが、何とも可笑しく、そして哀しい、闇の底。
 雨は、シトシトともザアザアともショボショボとも降らない。
 路地裏を千鳥足で歩く背中を打ち、酒場の賑わいを思って机に寄る書斎の屋根に、サタ、サタ、サタと降る。
※読み直したら、4アイテム増えて137、292個になりました。まだ増えるでしょうか・・・。
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2012年09月21日

朽ちるもの

IMG.jpg 例によって、乱読、併読のこと。

『朽ちる鉄の美 機能とカタチのデザイン』(山本剛史、写真 矢野 誠、淡交社)

 頁を開くと、新刊本特有のインクの匂いに混じって、鉄の匂いが立ってくる。
 ゴツゴツした塊の肌合い、滑らかに磨かれ打ち出されたカタチに「触れる」と、掌にしっとりと馴染んでくる懐かしさがある。
 錆びて黒くくすんではいるけれど、決して「汚れて」はいない。地肌が鈍く鉄色に光るものたちからは、清潔感さえ漂う。
 使い込まれて角が取れて、年功を経て丸くなった小道具や治具たち。布を裁てば、シャリシャリと小気味よい音が聞こえそうな鋏たち。
 メッキや彩色で地金を覆われずに、鉄が鉄のまま黒皮を帯びるまで使い込まれたものたち。
 鋳型からうまれたものたち、ひとつひとつ鍛造されたものたち、部品が組み合わされ手技で仕組まれたものたち。
 彼らに、形式美や様式美を言えば贔屓の引き倒しになるだろう。彼らには、用途に求められ必要から生まれた創意工夫が醸し出す生まれるべくして生まれた美しさがあるばかりだ。
 鉄は摩耗する。わけもなく腐食し欠損してゆく。錆が侵食すれば、その形、機能を犯す。
 しかし、錆やくすみの中で底光りする鉄の肌からは、滅び行くものの悲哀感どころか、鉄本来の硬さと柔らかさが合い持つ、したたかな強靭さが潜んで見える。我々がよく知っている、鉄という金属の冷たさと温かさと、そして懐かしさも潜んでいる。
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2012年03月25日

心を開くこと(断想)

終わりと始まり.jpg 例によって、乱読、併読のこと。
 『最後だとわかっていたなら』(ノーマ コーネット マレック・作、佐川睦・訳、サンクチュアリ出版)
 『終わりと始まり』(ヴィスワヴァ・シンボルスカ著、沼野充義訳・解説、   未知谷)
 『シンボルスカ詩集』(つかだみちこ編・訳、土曜美術社出版販売)

‘千の風になって’がそうであったように、いや、多くの詞華集がそうであったように、個人であるか多人数であるかを問わず、大きな悲しみのあとでは、人はすばらしい詩を生み出す、あるいは見出すものであるらしい。
 2011/3/11を経験して、多くの作家たちがことばを失ったと告白している。どれほど意を尽くしても虚構の宿命を免れ得ない小説、散文では、あまりにも深甚な出来事、現実の前に何をなすべきか何を語るべきかを見失い、見出せずにいる、というのだ。
 一方で、詩が人々の心に寄り添えるのは何故なのだろうか。一篇の、決して多くはないことばの連なりが、どうしてあれほどの感動と共感を人々の心に呼び起こすことができるのだろうか。
 それには、< 優しい気付き >ということがあるように思う。直截に< そのこと >に触れずに置いて、同じ人として隣に佇みながら静かに呟く、その距離感でもあるだろう。俯いていた人がふと気配を感じて目を上げたときに見る、< そこにいてくれる >温かい微笑でもあるだろう。虚脱感という無音の、あるいは耳を聾する阿鼻叫喚の世界にいてかすかに耳に届いた小さな呟きを心音として聴いた、自分への共鳴か・・・。
 人は、祝祭のあとでは並べてそうであるように、途方もない虚無と悲しみの中では、声高な激励も喚声も避けようとするだろう。
 静謐の底から湧いてくる、光と空気の流れと音に、そしてことばにこそ、心を開くだろう。
 そう、ことばが流れ出て始めて、人は心を開くのだ。心が開いてことばが出るのではない。
 そのことに、人はすでにして気付いているのかもしれない。
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2011年07月02日

うれしい『おてがみ』

 毎月第一土曜日は、市立図書館のお話し会担当日。この4月から、若いKさんが加わってくれた。Kさんは、講談社の朗読キャラバンに参加するなど、闊達なお嬢さんで、表現力もあり頼もしい限りだ。長らく当方が望んでいた朗読劇が出来るようになったのが何よりうれしい。
 今回は、『おてがみ』と『だってだってのおばあさん』を朗読劇で、間に、Kさんが絵本、『おこだてませんように』を読んだ。
『おてがみ』は、アーノルド・ロベルの原作を、詩人の三木 卓が訳したもの。かえる君とがま君の、一通の手紙をめぐっての心温まる物語。
『だってだって・・・』は、佐野洋子の絵本を朗読劇仕立てにしたもので、当初、朗読劇だけを聞いてもらうつもりでいたのだけれど、Kさんが自宅から持ってきた絵本を見てびっくりしてしまった。佐野さんの絵が素晴らしい。読み手は台本を手にしていたので、図書館の司書さんの手をお借りして、聞き手には絵本を見せることにした。朗読劇と、絵本と、音楽のコラボレーション。
 Kさんの表現力で、98歳のおばあさんが、99歳になり、5歳になって、笑顔がはじけた。
 来月は、怖いお話をいくつか集めて、納涼お話し会になる。何故か子どもたちは、怖い話が好きで、例年、20人近い子供たちが集まってくれる。さ〜てぇ〜
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2011年06月09日

青い大きな果実

 のり子さん、お元気ですか?
 と言って、僕はのり子さんが亡くなったことを知っています。それよりなにより、僕に、あなたを「のり子さん」と呼べる資格があるのかないのか。詩人であるあなたの、ほんの数冊の詩集を手にしただけの、底の浅い読者でありますから、それだけで、僕の呼びかけは、あなたに遠く届かないことも知っています。
 でも、呼んでみたい、あなたの名前を。・・単に、あなたの名前が、僕の初恋の女(ひと)と同じだということだけでも・・。

落ちこぼれ.jpg  茨木のり子詩集『落ちこぼれ』(水内喜久雄 選・著 はた こうしろう 絵、理論社)

 書店のレジで、店員が必ず、短冊形の栞様のものを取り出す、あれは何と言うのか。書店や取次店でやり取りするときの、大事なレターには違いないと思うのだけれど。
 家に戻って、『落ちこぼれ』を手にすると、件の紙片がハラリと落ちた。いつもは、さして気にも留めずに、そのまま屑かごに入れてしまうのだけれど、今回は、「金沢市」という文字が目についたので、しげしげと眺めることになった。曰く、「金沢市 勝木書店金沢泉野店」。「注文 08年04月21日、返 09年02月28日」。
この紙片を抱いたまま、『落ちこぼれ』が廻り廻ってどのように当方の地元の書店に辿りついたのか。かの地の書店で一年近く店頭にあって、どんな人の目に触れ心に響いたのだろうか、などと考えているうちに、無性に「のり子さん」に、手紙を書きたくなってしまった。
 詩集には、教科書にも載せられたという、「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」、選・著者が詩集のタイトルに選んだ「落ちこぼれ」など33篇の詩が収録されている。
 中で、< 高い梢に/青い大きな果実が ひとつ・・>に始まる、「木の実」は、茨木のり子さんの立ち位置を示してくれる詩で、< 嵌めるべき終行 見出せず・・>と詠う詩人の潔さと慙愧の念が余韻を残す。韜晦という言葉の納まりどころを見たようにも思える。

追伸 いま、金沢市のあの書店に、のり子さんのどんな詩集が並べられていますか?
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2011年06月05日

ものの名前( 断想 )〜『空の名前』に寄せて

空の名前.jpg ものに名前を付けて呼ぶのは、そのものを他のものと区別することに始まったのだろうけれど、そこにはある種の感動があったに違いない。
 雑草、雑木と言うがごとく、人は引括ったもの言いをしたがる。それはまた、あるものを引き立てるために敢えて他を丸めた言い方をすることなのかもしれない。
 美しいものを見て感動した時に、人はその喜びを誰かに知らせたくなる。そのことを伝えて、その人と共有したくなる。ついで、そのことを記憶して、何回も味わいたくなる。そして、そのことが重なり数が増えると、「あれ」や「それ」では追いつかなくなり、そのものに固有の呼び名を付ける。人と人とは、その数が増えるに従って、互いに親しみ、優しくなれる。感動の伴わない名前があるとすれば、それは単に他と仕分けし、分類する、便宜上の記号に過ぎない。
 もっとも、それを見逃さない人はいる。詩人と呼ばれる人は、ものの中に潜む何かを見つける。あるいは、浮かんだ言葉が何かを現出させる。
 
 樹木や草花も、少しでも心が動かされたものは、名前が憶えやすい。いや、憶えたくなる。名前とともに、その色合いや姿形、匂いを含めて、人の心に沈み込む。

『空の名前』と題した本を著した人がいる。雲と水、氷や光、そして風を追いかけて、歳時記風天気図鑑とした。
 潦。にわたずみ。「勢いよく雨が降ると、庭には水たまりが出来ます。これが、潦です」。というがごとく、著者は392項目にわたって、空の名前を教えてくれる。

 頁を繰りながら、好きになりそうな人の名を、まず一番に、誰かにそっと訊いた記憶がよみがえる。

※『空の名前』(写真・文 高橋健司、角川書店)
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2011年03月06日

ふたつの詩の詩集

 例によって、乱読、併読のこと。


詩ふたつ.jpg ある日然る書店で、店員に詩集のコーナーを訊ねた。
「詩ですか、どんな詩ですか?」と返された。
 さて、どんな詩と言われても(困るなあ)と思いながら、店員の後について行くと、冠婚葬祭関連のコーナーの脇に、ちょこっとほんの数冊、詩集が肩身を狭くして寄りあっている。
 やっぱりなあ、何処でもこうなんだよなあ、と溜め息をついたとき、ひょいと目についたのが『長田 弘 詩ふたつ』。
 頁を繰って目にしたグスタフ・クリムトの絵を見て腰を抜かしてしまった。「黄金の時代」といわれ、金色を多用した肖像画の作者とばかり憶えていたから、詩集に編まれた絵の数々に息を飲んでしまった。「ユディナ」、「アデ―レ・ブロッホ=バウアーの肖像」などを、いつだったか画集で見たことがあるくらいだった。
 あー、風景画も描くんだ、それにしても凄い、凄い。「ブナの森」、「白樺の森」、「樅の森」そして花々の咲き乱れる農園の図。そこを、詩人が逍遥しながら呟く。
 収録された詩は、「花を持って、会いに行く」そして「人生は森のなかの一日」のわずかに二篇。
 でも、これが豊かなのです、実に豊饒、ゆったりと歩を進めるのです。だから、一緒にゆっくりと辺りを鑑賞し、木々や花々や詩人の言葉と観照し歩くことが出来るのです。
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2011年02月05日

仕事始め


ふゆをおいだせ.jpg 毎月第1土曜日は、市立図書館の「おはなし会」の担当日。
 1月は、ちょうど元日にあたったためお休みだったので、今日が今年の仕事始めになる。

 季節に合わせて読んだ絵本は、次の2冊。
『びんぼうがみとふくのかみ』(富安陽子・文 飯野和好・絵 小学館)
『ふゆをおいだせ』(作・富安陽子 絵・二俣英五郎 ひかりのくに)

『びんぼう〜』は、松谷みよ子さんの解題によると、民俗学者の野村純一氏が編まれた『五分次郎』という昔話の資料集に収められており、山形地方だけで語り継がれてきた話ではないかという。それを、富安さんが見事に作品化して読ませてくれる。
 居すわったびんぼうがみと一緒になって、入れ替わるために訪れたふくのかみを追い出してしまう、愛すべき、おとうとおかあのお話。飯野さんの大胆不敵なタッチの絵が物語にぴったりはまって、素晴らしい絵本になった。
『ふゆを〜』は富安さんのオリジナル作で、厳しい冬を乗り切るキツネたちのお話。ユーモアたっぷりのお話と二俣さんのあたたかいタッチの絵が、降り積もった雪を溶かして見せてくれるものは・・・。

 いつもの子供のお客さんに加えて、今日は、北茨城市立図書館の館長さんと読み聞かせボランティアの方々も読書コーナーで耳を傾けてくださった。終わった後、お互いの苦労話など懇談をして、意義ある時間を過ごせました。
 遠い所ありがとうございました。
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2010年11月03日

流れる - 『野 川』

 一枚の絵に向かう時に、これは何々を描いた絵だ、といっても詮ないこと、画家は、既にイーゼルを離れてしまっている。
 筆痕の後先、左右、上下に大いなる意味を残したまま絵筆はいつか置かれる。
 章句も句読点も、一枚の絵の中で筆が動くように、前後左右する。それは、「絵」そのものになる前の混沌をもなぞって行く。
 中央に野川が流れている、絵図がある。朧な記憶の中に、陽を受けて白く光っているその一筋が写幕となって、様々な景色や人々の蠢きを映し出す。


野川.jpg 例によって、乱読、併読のこと。
『野 川』(古井由吉、講談社文庫)

< 日常の一場の光景のほうが天体の巡りよりも、水よりも時よりも、永遠のようにながめられることはある。> 

 ひとは、また、時空をさえも、章句の中に、一点の筆痕の中に、昇華させ塗り込めずには措かない。

< 最後のわたしとは、解体消滅の際(きわ)にあるのではなくて、いまここに、また反復の日常の内にあるわたし、いや、ここにあるわたしをまた見出すという、安堵と呼ぼうと絶望と呼ぼうと、そのことなのかもしれない、と考えた時、日の光を透かせて一枚ずつ細かく顫えていた黄葉がその動きを一斉に停めた。>

 ひとは、流れる野川を遠く眺めながら、同時にその流れに乗って移ろって行く。

※ < >内は、同書から引用させていただきました。
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2010年10月28日

「おしまいのページで」

 
おふくろの夜回り.jpg 例によって、乱読、併読のこと。
『おふくろの夜回り』( 三浦哲郎・文藝春秋刊 )

 三浦哲郎が亡くなった。
 奥付を見る限りでは、作者はこの本の出版を見届けることが出来たはずだけれど、それを「せめてもの慰め」というには、あまりにも淋しい。
 目次に言う「おしまいのページで」は、オール読物の、「字数にしてわずか千字の短いエッセイを収める欄」、巻末の頁に発表したという意味が込められているらしいのだが、作者の死によって本当の「おしまい」になってしまった。
 名文家、短編の名手といわれた作者の最後の随筆集、と帯にも謳っている。
 思うに、千字の話というのは、たとえば酒を酌み交わしながら、お互いが一つの話を語ってやり取りする、そんな長さなのではないだろうか。作者が愛した薪ストーヴや囲炉裏端の煙も懐かしく・・・。
 緻密に練られた文章には一々相槌を打つ間隙はないけれど、ゆったりした語り口に耳を傾ければ、作者の懐の深さに感応しつつ、実に多くの人生の途上の風景をみることが出来る。
 小さなエピソードを少しの言葉で綴って、遠く開ける風景を描いた練達のひとは、既に自らをその点景としてしまった。合掌
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2010年10月24日

『りんごのおじさん』と

 りんごのおいしい季節になって、行きつけの観光りんご園から案内状が届いた。曰く、
「ハートで作る。ハートが生まれる。」
 来月には、蜜の入ったおいしい「ふじ」も食べ頃になる。
 
りんごのおじさん.jpg で、思いついて、11月6日第一土曜日の図書館でのおはなし会には、『りんごのおじさん』( 竹下文子 文、鈴木まもる 絵、ハッピーオウル社 )を読むことにした。
 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも紹介された、りんご農家・木村秋則さんのものがたり。
 木村さんは、常識、「絶対不可能」を覆して、無農薬でりんご作りを成功させた人で、沢山のドキュメンタリー本も出版されている。
 


ちいさいいすのはなし.jpg もう一冊は、『ちいさいいすのはなし』( ハッピーオウル社 )。以前、図書館の書架で見つけて、いつかおはなし会で読んでみたいとリストアップしていた絵本なのだけれど、今回、下読みのためにと早目に図書館から借りてきて驚いた。
 あれっ!!これも、竹下&鈴木コンビだ。
 まず、絵が印象に残っていた。ラワンベニヤ板にガッシュで描かれた絵の数々。ベニヤ板独特の木目のポチポチが塗りつぶされずに、絵の調子になっている!
 こどもが笑っている。若い夫婦が微笑んでいる。傍らに「いる」ちいさいいすも、ホッコリと幸せだった、が・・・。

 ものをたいせつにしなさい、と声高に言わずに、ちいさいいすの呟きでそれと知らせる。だから胸に響く。
 
 ぼくは、いすです。
 ちいさい こどもようの いすです。
 これまで ずっと。
 これからも ずっと。
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2010年09月27日

今日よりは


IMG.jpg 「人肌」恋しい季節になると、次の歌が思い浮かんでくる。(ただ「人肌」と言っても、当方には酒の温燗の謂いなので甚だ色気のない話ではあるけれど・・・。)
 
 小竹(ささ)が葉のさやぐ霜夜に七重(ななへ)かる
      衣に益(ま)せる子らが膚(はだ)はも
    
 万葉集巻二十に見える防人の歌だ。
 思い出して、書棚から取り出して再読したのが、
『防人の歌は愛の歌』( 山本藤枝著・立風書房刊 )
 
 その昔、庶民には数々の徴税、役務が課せられたが、その最たるものは「防人」という兵役であったに違いない。なにしろ、常陸の国をはじめとする東国からはるばる遠く九州沿岸、諸島にまで出かけなければならなかったのだから。 
 万葉集巻二十は、大伴家持が中心になって編まれたものらしく、84首の防人の歌が採択されているという。

 今日よりは顧みなくて大君の
  醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは

 この歌ほど人々の口に上り、褒貶の波間に翻弄された歌はないかもしれない。もとより、それは、この歌にその因があるのではなく、戦時、兵士に意気と益荒男振りを論って、士気高揚のために喧伝されたことによる。
 しかし、著者が読み解くまでもなく、防人の歌は、そのほとんどが父母、妻子そして想い人との惜別の歌であり、愛別離苦を歌って切々と胸に迫る。
 書中、「父母」に関する考察は、単に感傷に流れがちな読み手に、確かな時代背景を呈示してくれる。
 著者が開いた万葉講座(20年に亘って、4500首余を一首も落とさずに読み解いた)の受講生である主婦たちが、もっとも心に残った防人の歌としてあげたのは、次の歌だという。

 韓衣(からころむ)裾に取りつき泣く子らを
  置きてそ来ぬや母(おも)なしにして

 防人の守ったものとは、何だったのだろうか。
 著者もまた、太平洋戦争で夫君を戦場に送った一人なのだ。
 声高に叫ばずとも、『昭和万葉』から引かれる歌が綾糸となって、読む者の心に届く。
 そう言えば、防人の歌ではないけれど、

 海行かば水浸く屍 山行かば草生す屍・・・

もまた、万葉集には見える。
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2010年07月04日

おこだでませんように

 4日(土)は、市立図書館「お話会」の担当日。
 今回読んだのは、次の3冊。
『だいちゃんとうみ』(太田大八作・絵 福音館)
『うみのむこうは』(五味太郎作・絵 絵本館)
『おこだでませんように』(くすのきしげのり作、石井聖岳絵 小学館)

「これは閉架ですからお預かりします」
 
 市立図書館では、借りた図書を返却するとき、本に張り付けられたバーコードを読み取ってもらい、自分で所定の仮置き書架へ戻すことになっている。あとで係の人が整理する。3冊のうち、『おこだで〜』は、司書さんの手に残った。
「えーっ、これ閉架なの?こんないい本、仕舞って置くのはもったいないよ」
 次から次へと新刊本が届き、多い月には絵本だけでも10冊を超えることもあるという。
 かくして、名作も閉架扱いとなり、検索して探し出さなければ「お蔵入り」となってしまう、と案じたつもりだった。
「大丈夫です、これは全部で4冊ありますので、新しいものは開架閲覧できます」
(そうでしょう、多くの人に読んでもらいたい。子どもたちだけでなく、大人の読書人にも。)


おこだでませんように.jpg   少年よ
 少年の 石を 蹴る
 胸の 重さよ
 少年の 歌を 歌う
 胸の 遠さよ
 少年の 愛を 求むる
 胸の 塞ぎよ

 少年よ 大地に 立つか
 少年よ 誰彼を 好きか
 少年よ 誰彼を 憎むか

 少年の 爪を 噛む
 爪の 痛さよ

※絵は、『おこだで〜』本文頁から。この物語の全てが凝縮されている一場面。
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2010年06月22日

詩人の、とき


詩人の墓.jpg 『詩人の墓』(詩・谷川俊太郎、絵・太田大八 集英社)


ときに、詩人は自虐的になる。
「誰かが死ぬと墓に刻む詩を書いた」のに
自分の「墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった」ように。
「男の詩はみんなに気にいられた」のに
「詩を書いていないとき男はとても退屈そうだった」ように。
 
女になれなかった娘は、だから詩人である男に
「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って!」
と叫ぶ。

詩人が人を愛するのは、すべての言葉を忘れたとき。
相手が、詩人の心の空洞を見透かしても、次の台詞を心に仕舞っておいてくれるとき。
「言うことは何もないのね
あなたって人はからっぽなのよ
なにもかもあなたを通りすぎて行くだけ」

※「 」内は、同書からの引用です。
太田大八の絵は、例によって言葉以上に詩的で旋律的です。
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2010年06月05日

難しい絵本

 毎月第一土曜日の午後からは、市立図書館での「お話し会」で読み聞かせを担当する。
 今回読んだのは、次の2作。
『くものこどもたち』(ジョン・バーニンガム作・絵、谷川俊太郎訳:ほるぷ出版)
『山のごちそう どんぐりの木』(ゆのきょうこ作、川上和生絵:理論社)

『くもの〜』は、まさにジョン・バーニンガムの世界。
 両親と登った山から下山中に、足を滑らせて崖から落ちて行方不明になったアルバート少年は・・・。

 ファンタジックな物語と言えばそうなんだけれど、奇想天外過ぎて意味不明?な筋書き、ともとれる何とも不思議な話。
 深読みすれば、法華経の教えにも届くような「救い」が漂ってはくるけれど、子どもたちの心にどのように響いてくれるのか、読んでいて心もとない本ではあります。

山のごちそう どんぐりの木.jpg  『山の〜』は、どんぐりのなるコナラの木の春夏秋冬を通して、そこに集う、昆虫、けもの、鳥たちを描いて、わくわくさせられる本。当方の様な、どんぐりオタク族にとっては、ニコニコもの。
 コナラの若葉をごちそうにする、ミヤマセセリ、オオミドリシジミ、ハバチ、ヤママユガ、ナナフシなどは、ネットで検索した画像をプリント・アウトして使わせていただいた。
 だから、時に本を離れて、子どもたちと一緒に、オオミドリシジミの羽根の美しさにウットリ溜め息をついたり、ヤママユガの大きな羽根の目玉模様に尻込みしたり。
 しかし、何と言っても、オトシブミが紹介されているのが嬉しい。「みんな知ってる、知らないか・・・」。またまた脱線して、当ブログでも紹介した、親虫が「落文」を作る一部始終を写真で説明し、小庭のコナラの木にぶら下がって残っていた「落文」の実物を見せたり。これにはお母さん方も興味津津で、子どもたちと一緒に歓声を挙げていた。
 このオトシブミの話は、8月に予定されている「図書館まつり」で、画像と物語を構成して発表したいと思っている。
 さて、どんな「落文」が生まれるか・・・。
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